平家物語の群像 景時⑥逆櫓論争で義経と対立
逆櫓の松趾碑 大阪市福島区福島一ノ谷の戦いは、義経の奇襲戦法もあって源氏側の圧倒的勝利に終わるが、この戦いで、景季 (かげすえ) は自害直前の平重衡 (しげひら) を生け捕りにした。...
View Article平家物語の群像 景時⑦大将と個人プレー
源義経騎馬像(騎馬像では日本一の大きさ) 徳島県小松島市芝生町旗山「よき大将軍と申すは駆くべき所をば駆け、引くべき所を引き、身を全うして敵を滅ぼすを以てこそ、よき大将軍とはしたる候ふ。さやうに偏趣 (強情) なるをば、猪 (いのしし) 武者とてよきにはせず」 景時がややきつくたしなめると、義経が反論した。「猪鹿 (いのしか) は知らず。敵はただ平攻めに攻めて (攻めまくって)...
View Article平家物語の群像 景時⑧義経と景時の先陣争い
倶利伽羅峠から壇ノ浦まで元歴2年3月24日午前6時、長門国の赤間関壇ノ浦で、源平は矢合せ (開戦の合図) をすることが決まった。ところが当日、再び、義経と景時が激しく対立した。梶原進み出でて、「今日の先陣をば、景時に賜び候へかし (お任せを) 」判官、「義経が、なくばこそ (いなければ) 」梶原、「正なう候ふ (それはおかしい) 。殿は、大将軍にしてましまし候ふものを...
View Article平家物語の群像 景時⑪梶原景時の讒言
『吾妻鏡』 (吉川本) 右田弘詮の序文壇ノ浦の戦いの戦勝報告の中で、景時は頼朝に上記のようなことを書き送っている。鎌倉幕府の公式記録 『吾妻鏡』 に収めてある。九郎判官義経殿は独断専行でわがままで、われわれは困り果てているという趣旨である。 これが、いわゆる 「梶原景時の讒言 (ざんげん 告げ口) 」 と呼ばれるものだ。『吾妻鏡』...
View Article平家物語の群像 景時⑫義経、挙兵失敗
弁慶が土佐坊を自分の馬の背に乗せた図 歌川国芳文治元(1185)年10月17日、土佐坊昌俊は83騎で、京都の義経の邸・六条室町亭を襲撃した。義経は自ら応戦しているうちに、行家の軍勢がやってきた。昌俊は鞍馬山に逃げ込むが、義経の郎党に捕らえられ、26日、六条河原で梟首 (きょうしゅ さらし首)...
View Article平家物語の群像 景時⑭景時は、明智光秀か
和田義盛 初代侍所別当 『前賢故実』 (江戸時代) 景時に代わって取り調べにあたった畠山重忠が礼儀正しく接すると、由利八郎は感激して快く尋問に応じた。「先ほどの高慢ちきな御仁とは、雲泥の差だ」...
View Article平家物語の群像 弁慶①京の五条の橋の上
牛若丸と弁慶像 京都 五条大橋 京の五条の橋の上、大のおとこの弁慶が、長い薙刀ふりあげて、牛若めがけて切りかかって以来、ふたりの君臣の交わりは、ついに終生のものとなった。平泉の衣川館で、「弁慶の立往生」 と語り継がれる壮絶な最期を遂げるまで、「身にそう影のごとく」...
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View Article平家物語の群像 弁慶②牛若丸の千人斬り
橋弁慶山 京都祇園祭稚児でもあるし見逃そうと思ったが、よく見ると腰にみごとな太刀を帯びている。「あの立派な太刀をいただくか」 と挑みかかると、稚児は、五条大橋の欄干を、前後左右にヒラリヒラリと飛び上がって、身をかわしざまに大の男を打ち負かした。弁慶は降参して、生涯の忠誠を誓った。異説がある。太刀を集めていたのは、実は牛若丸のほうで、父義朝の供養のため、千振りの太刀を奪う願を立てていた。これを...
View Article平家物語の群像 弁慶⑤摂津から西海を目指す
摂州大物浦平家怨霊顕る (せっしゅう だいもつうら へいけ おんりょう あらわる) 歌川国芳画元暦2(1185)年2月16日午前2時、「そなたらが兵船を出さなくとも、自分は行く。暴風のときに急襲してこそ、敵を討てるのだ」とはいえ、200艘のうちわずか5艘しか付いて行かないとは寂しい大将だ。まさか、弁慶ら平泉以来の家来だけではないだろうが……。「船に篝火 (かがりび)...
View Article平家物語の群像 弁慶⑦奥州平泉へ
奥州藤原氏三代 上:清衡、向かって右:基衡、左:秀衡頼朝・政子夫妻が鶴岡八幡宮に参詣するさい、舞を披露せよというのだ。御家人たちも、「都で名高い、白拍子の舞をひと目みたい」 と楽しみにしている。静は、「捕われの身で、目立つ場に出るのは屈辱」 と、病を理由に断ったが、頼朝から再三使いが来た。やむなく、鶴岡八幡宮若宮の回廊に設けられた舞台に立った。 ○吉野山 峰の白雪 ふみわけて...
View Article平家物語の群像 弁慶⑧安宅の関
義経を打ちすえる弁慶 安宅の関義経や弁慶の一行が、北陸を通って奥州へ逃れる途上の加賀国安宅の関 (石川県小松市)。一行は、弁慶を先頭に山伏の姿で関所を通り抜けようとした。しかし、関守の富樫左衛門のもとには、すでに義経一行が山伏姿であるという知らせが届いていた。富樫の尋問に対して、「焼失した東大寺再建のための勧進をしながら諸国を歩いている」...
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