文治3(1187)年、伊勢国の沼田御厨(みくりや)で、重忠の代官が不正をはたらいたため、重忠の身柄は囚人として、千葉胤正(たねまさ)に預けられた。
律儀な重忠は、代官の罪を恥じて絶食する。
頼朝は、重忠の人格と武勇を惜しんでほどなく赦免した。
重忠は武蔵国の自分の屋敷に戻ったが、
景時は、重忠が囚人として千葉に預けられたことを恨みに思って謀反を企てていると、頼朝に讒言した。
景時はそのころも軍監的な役職 (監視役) に就いていたのかどうかはともかく、これでは同僚に総スカンを食うだろう。
豊臣政権下の石田三成のような役回りか。頭の切れる能吏だが、疑い深くて包容力を欠き、上にはひたすら忠実。
頼朝が重忠の様子を探るため使者を遣ると、恥辱と感じた重忠は自害しようとするが、使者が押しとどめて、申し開きをするため鎌倉へ行くよう説得した。
景時が取り調べ役となったが、重忠は断固として身の潔白を主張、頼朝は疑いを解いた。人望家の重忠を陥れようとしたとして、景時は御家人たちから憎まれる。
一方では、景時は都築経家、金刺盛澄、城長茂、曾我兄弟の赦免を願い出ることもしている。
民主党の政治家は、「説得」という言葉をむなしく多用するが、山口県民や沖縄県民を「説得」する前に、アメリカを「説得」すべきだろう。
文治5(1189)年7月、奥州合戦 (奥州征伐) に景時父子も従軍。藤原泰衡は敗走して殺され、
ここに、奥州に栄華を誇った藤原氏はあっけなく滅びた。
戦後、景時が捕虜になった泰衡の郎党・由利八郎を取り調べたが、景時の傲慢な態度に由利は怒って、取り調べに応じようとしなかった。
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