弁慶が土佐坊を自分の馬の背に乗せた図 歌川国芳
文治元(1185)年10月17日、土佐坊昌俊は83騎で、京都の義経の邸・六条室町亭を襲撃した。
義経は自ら応戦しているうちに、行家の軍勢がやってきた。
昌俊は鞍馬山に逃げ込むが、義経の郎党に捕らえられ、26日、六条河原で梟首 (きょうしゅ さらし首) にされた。
襲撃翌日の18日、義経は後白河法皇から頼朝追討の院宣を受け取ると、行家とともに挙兵するが、
義経の旗の下に馳せ参じたのは、わずかに数百名。
一の谷から屋島、壇ノ浦と、平家を滅亡に追い込んだ華やかな軍歴をもつ義経にしては無残な数字だ。
いくさ上手だけでは、人 (武士) は集まらないということか。これでは、鎌倉に攻め込むなど夢のまた夢のそのまた夢。
景時の讒言、と呼ばれるものは他にもある。
土佐国の夜須行宗(やすゆきむね) が壇ノ浦の戦いでの恩賞を願いでてきたとき、景時が、「夜須という者の名など聞いたことがない」 と申し立てて訴訟になったが、
証人が現われ、夜須の戦功が明らかになり景時は敗訴した。
罰として、景時には鎌倉の道路を補修するよう命じられた。
この一件で、鎌倉ではすでに民主的な裁判が機能していて、頼朝の側近さえ敗訴するということが分かる。
「日米安保が…」「地位協定が…」と、国民を守るために米国と交渉しようともしない歴代政権。相変わらずアメリカにNO!!といえない。
梶原景時と対比される御家人に畠山重忠がいる。例の二項対立である。
「悪人で傲慢な景時」に対して「善人で謙虚な重忠」
一の谷の戦いの時に、次のような話がある。
ご存知の方も多かろう。
義経から鵯越の逆落としの作戦が伝えられた。急な崖を、馬で一気に下ろうというものだ。重忠だけは馬から降りた。
「馬が可哀そうだから、自分が馬を背負って下る」
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平家物語の群像 景時⑫義経、挙兵失敗
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