正治元(1199)年正月、頼朝が急逝し、嫡男の頼家が家督を継いだ。
だが、頼朝の独裁に不満が募っていた御家人たちにより、頼家が将軍に就いて3カ月後には訴訟の採決権を奪われ、13人の重臣による合議制がしかれた。
頼朝につづいて頼家も、「一の郎等」として頼みとしていた景時も、合議制に加わっている。
『吾妻鏡』によると、その半年後、侍所にやってきた結城朝光(ゆうきともみつ)が、ひとしきり頼朝の思い出話をしたあと、
「忠臣二君に仕えずというが、頼朝殿が亡くなったときに出家すべきだった。今は薄氷を踏む思いだ」と語った。
2日後、阿波局 (北条時政の娘 源実朝の乳母) が朝光に、「先日の発言が謀反の証拠だと、梶原景時が将軍に讒言した。あなたは殺されますよ」と告げた。
驚いた朝光は、三浦義村に相談。
和田義盛らに呼びかけて鶴岡八幡宮に集まって協議。
景時を恨んでいる公事奉行の中原仲業(なかのり)に、景時糾弾状の作成を依頼した。
鎌倉幕府内部における、権力闘争の幕開けである。
正治2(1200)年正月、鎌倉を追われた景時は、京都を目指して一族郎等とともに領地の相模国一ノ宮を発った。
土御門通親や徳大寺家といった公家社会と縁故のある景時は、朝廷に仕えようとしたのだろうか。
『吾妻鏡』は、景時が上洛して西国の兵を集め、武田有義(甲斐源氏)を将軍にたてて反乱を企てたとしている。
日本列島の上空を、米軍機がわが物顔で飛び回っていることを改めて知らされます
いずれにしろ、上洛途上、在地武士の襲撃を受けて、梶原一族は滅亡した。
『吾妻鏡』は、景時の死に関して、
「二代にわたる将軍の寵愛をいいことに、傍若無人な振る舞いが多く、積年の悪事が身を滅ぼした」と記している。
いくつかの権力闘争を経て、ライバルたちを倒した北条氏が執権として実権を握るが、『吾妻鏡』は、北条時代に編纂された 「鎌倉幕府の公式記録」 である。
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