和田義盛 初代侍所別当 『前賢故実』 (江戸時代)
景時に代わって取り調べにあたった畠山重忠が礼儀正しく接すると、由利八郎は感激して快く尋問に応じた。
「先ほどの高慢ちきな御仁とは、雲泥の差だ」
「善人で謙虚」な重忠に対して「悪人で傲慢」な景時だが、なかなかの教養人で和歌も詠む。
建久元(1190)年、頼朝が伊豆に流されて以来、初めて上洛するとき、景時も随行した。途中、遠江国の橋本宿で遊女らを侍らせての酒宴で、両者は和歌をやりとりした。
『沙石集』には、奥州合戦の際に、ふたりが交わした和歌が収められている。
建久2(1191)年、公卿歌人・徳大寺実定死去の記事に、景時と弟の朝景が実定から和歌を学んでいたとの記述が見える。
鎌倉幕府創設のころ、きちんとした文章を書ける坂東武者はほとんどいなかった。
景時④広常暗殺の真相
文章を書けて和歌をたしなむ景時は、頼朝にとって余人をもって代えがたい存在であったろう。
織田政権下、信長が幕府や朝廷との折衝を任せた明智光秀の立場と通じる所があるといえば、連想の飛ばし過ぎか。
人間模様 (義昭・信長・光秀) 光秀と秀吉
何をか言わんや、である
建久3(1192)年、景時は和田義盛に代わって侍所 (さむらいどころ 御家人を統制する役所) 別当 (長官)に就任した。
『吾妻鏡』には、景時が一日だけでも別当になりたいと義盛に懇願、一日位ならと交替すると、
景時が奸計をもって別当職を奪ったと記されている。
しかし、侍所別当という最重要閣僚がこのような軽い経緯で代わるはずもない。
頼朝の意向による人事と考えるのが妥当であろう。
戦乱が収束して政治の季節になると、武人一点張りの義盛より、武勇だけでなく実務能力に長け、きちんとした報告書などを作成できる景時が適任になったのだと思う。
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