平家物語の群像 源頼政⑫遠からん者は音にも聞け 近からん者は目にも見給へ
平等院鳳凰堂五智院の但馬が、大長刀 (なぎなた) の鞘 (さや) をはずして、ただ一人、橋の上へ進みでた。平家方は、「射殺せ、射殺せ」と次々に矢を射かけたが、但馬は少しも慌てず、上を飛ぶ矢はかいくぐり、下を飛ぶ矢は飛びこえて、向かってくる矢は長刀で切り落とした。敵も味方も、あざやかな動きに見とれている。但馬が、「矢切りの但馬」と呼ばれた所以である。筒井明秀も、ひとりで橋の上を進んでいくと大音声...
View Article平家物語の群像 源頼政⑬橋合戦 足利忠綱の先駆け
橋合戦 /宇治平等院の戦い橋の上の戦いは、火を噴くような激戦になった。ある者は敵の首をあげ、ある者は深手を負って腹をかき切り川へ飛び込んだ。平家方の侍大将・上総の守忠清が、大将軍に進言した。「橋の上で味方が苦戦しております。ここは川を押し渡るべきでしょうが、五月雨の候で水かさが増しています。無理に渡れば、人馬の多くを失いましょう。川下の淀か一口 (いもあらい)、...
View Article平家物語の群像 源頼政⑭伊勢武者は皆緋縅の鎧着て
平等院鳳凰堂阿弥陀如来坐像その日の足利忠綱の装束は、朽葉の綾の直垂に赤威の鎧を着て、鹿の角を高く立てた兜の緒を締め、黄金作りの太刀を佩 (は) いている。24筋差した切斑の矢を背負い、滋藤の弓をもって、連銭葦毛の馬に、柏木にみみずくの模様を施した金覆輪の鞍を置いて、乗っていた。★ 古典文学には、貴族や武士の服装や武具の説明が必ず出てきます。読み流したくない方、映像として思い浮かべたい方は...
View Article平家物語の群像 文覚①幼馴染みの袈裟と再会
遠藤盛遠 袈裟御前 渡辺渡若いときに恋に狂った破天荒な怪僧いや高僧、文覚 (もんがく) 上人の俗名は、遠藤盛遠 (もりとお)。盛遠は、渡辺党出身の北面の武士であった。渡辺党とは摂津源氏の郎等で、ほかに源頼政に仕えた「王城一のイケメン」源 (渡辺) 競 (きおう)らがいる。北面の武士は院御所の北面 (北側の部屋)...
View Article平家物語の群像 文覚④修行といふはいかほどの大事やらん
『遠藤武者盛遠』 歌川国芳画全身全霊というか傍若無人というか猪突猛進というか、横恋慕だろうと略奪だろうと、周囲の親しい人々を不幸のどん底につき落としながら、一途で激しい己の恋心を袈裟に叩きつけた遠藤盛遠は、出家後、文覚を名乗ってからの修行ぶりも、やはり激烈である。どうみても、尋常の人物ではない。まず、修行とはどういうものか試そうとした。(原文)...
View Article平家物語の群像 文覚⑥春は霞に包まれ、秋は霧に烟り
(左から) 金伽羅 大日大聖不動明王 勢多伽 文覚が、「あなた方はいったいどなたで、なぜ、私にこのように心をかけて下さるのか」 と尋ねると、「われらは、大聖不動明王の御使いで、金伽羅 (こんがら) と勢多伽 (せいたか) という童子である。 『文覚が大願を発して、厳しい修行をしている。行って力を貸してこい』 という明王の仰せでやって来た」 という。文覚が、「明王はどこにおられる?」...
View Article平家物語の群像 文覚⑦沙弥文覚、謹んで申し上げます
文覚勧進帳 早稲田大学演劇博物館所蔵文覚はなんとか神護寺を立派に修復しようと大願を立て、勧進帳を携え、方々の施主 (せしゅ:僧や寺に物を施す人) を勧誘して歩いた。ある日、後白河法皇の御所・法住寺殿に参上した。御寄進願いたい、と近臣に申し出る。御遊 (ぎょゆう:宮中や上皇の御所などで催された管弦の催し)...
View Article平家物語の群像 文覚⑧勧進修行の趣かくの如し
神護寺薬師如来立像 (国宝)再び地獄の火穴に落ちて、苦界を輪廻 (りんね:いろんな動物の姿で生まれ変わる) することは、何とも痛ましいことよ。釈迦牟尼の説かれた教えの一つひとつが、悟りの根本原理を説き明かしている。ゆえに、仏の縁に従い、釈迦の説かれた教えを守るならば、悟りの境地に到らぬことはない。文覚は無常のこの世に涙を落として、貴賤道俗を問わず誘い、九品往生...
View Article平家物語の群像 文覚⑪龍王はいるか、龍王はいるか
文覚上人屋敷跡 神奈川県 鎌倉市雪ノ下「さては、検非違使庁の役人をだまされたな」「文覚は、観音様を深く信仰している。ほかの誰に、お願いしろというのだ」文覚には、悪びれた様子などかけらもない。伊勢の阿濃津から舟で下ってきたが、遠江の天龍灘でにわかに強風が吹き荒れ、大波が舟をひっくり返そうとした。水夫や船頭たちは懸命に転覆を免れようと努めたが、もはやこれまでと観念した。ある者は 「観世音菩薩」...
View Article平家物語の群像 文覚⑬ほら、これが院宣だ
前右兵衛佐 (さきのうひょうえのすけ) 頼朝 (通称:すけどの 、 鎌倉殿)文覚は、院宣を首に掛けると、頼朝の待つ伊豆にむかって駆け出した。一方、慎重居士の頼朝は、「文覚が無茶なことを後白河法皇に申し出なければいいが。困ったことにならなければいいが」 などと案じていた。伊豆をでて8日目に、文覚が戻ってきた。「ほら、これが院宣だ」頼朝は、院宣という言葉のかたじけなさに、新しい烏帽子 (えぼし)...
View Article平家物語の群像 文覚⑭残党狩り 六代の運命は
源頼朝と北条政子 視線の先は霊峰富士 蛭ヶ小島公園 (頼朝の配流地)文治元(1185)年、北条時政は、頼朝の代官として都を守護していた。朝廷との交渉とともに平家の残党狩りが、主要な任務である。「平家の男子を差し出した者には、好き放題に褒美を取らせる」...
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