平敦盛 『源平合戦図屏風』
平家の子弟を「公達」といい、源氏の子弟を「御曹司」と呼ぶ。
「公達(きんだち)」のほうは官位を持つゆえの言い習わしゆえ今に残っていようはずもないが、「御曹司」は平成の世にもなお使われている。
主に名門の子弟や資産家の息子を指すようだ。
後世、徳川家光は将軍就任に際して、「自分は生まれながらの将軍である」と居並ぶ大名らを前に高らかに宣言したが、維盛と資盛は生まれながらの公達であった。
曽祖父の平忠盛が昇殿を許されたとき、旧貴族らから猛反発を受けて闇討ちされようとしたことを思えば、正に隔世の感。
○維盛 (これもり 重盛の嫡男 母は官女 桜梅少将)
「光源氏の再来」と称された、まばゆいほどの美貌の貴公子。
19歳、後白河法皇50歳の祝賀で、烏帽子に桜の枝と梅の枝を挿して「青海波」を舞い、その美しさから「桜梅少将」と呼ばれるようになった。
富士川の戦いと倶利伽羅峠の戦いに大将軍として出陣するが、壊滅的な敗北を喫する。
都落ちの際、戦線を離脱した。
○資盛 (すけもり 重盛の次男 母は藤原親盛の娘)
和歌に優れ「新勅撰和歌集」「風雅和歌集」に採録されている。
叔母の建礼門院徳子に仕える歌人の建礼門院右京大夫と恋仲であった。
13歳のとき、資盛が関わった殿下乗合事件は、『平家物語』に「これこそ、平家の悪行のはじまり」として描かれている。
後に、織田信長は資盛の末裔を主張して、天下布武の拠り所(源平交代思想)とした。
○敦盛 (あつもり 成経の末子)
一ノ谷の戦いで、平家は義経軍に奇襲されて敗走。
敦盛が退却船に向かおうとしていると、源氏方の熊谷直実が通りがかり一騎討ちを挑んだ。
敦盛は応じたが、百戦錬磨の直実に叶うはずもなく、ほどなく捕らえられる。
直実の息子・直家と同じ十代半ば。
敦盛を討ったことが直実を苦しめ、それも一因となって出家。
法然上人に帰依した。
織田信長の好んだ『人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻の如くなり。一度生を享け滅せぬもののあるべきか』は幸若舞の『敦盛』の一節。
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