揚羽蝶 平氏の代表的な家紋
○平忠盛 (平正盛の子 平忠盛①~⑦参照 中井貴一)
白河・鳥羽両院政期の武力的支柱(北面の武士)で、伊勢守・備前守・播磨守などを歴任。
牛馬の管理や御幸の警護を行う武力組織の中核である、院御厩(いんのみうまや)の預になる。
日宋貿易の海上交通ルートである瀬戸内海に海賊が跋扈し、国司の力だけでは追討が困難になる。
鎮圧するために平家の棟梁である忠盛が追討使に任命され、海賊追討に成功、降伏した海賊を家臣に組み入れた。
得長寿院造営の功により、清涼殿・殿上の間への昇殿を許される。
受領(国守)としての収入と日宋貿易により巨万の富を蓄えて、平氏繁栄の基礎を築いた。
笛を吹き、琵琶を弾き、舞いにすぐれ、和歌が勅撰集『金葉集』に採録されるとともに、家集『平忠盛集』を持つほどの趣味人であり歌人である。
○白河法皇 (後三条天皇の第1皇子 伊東四朗)
延久4(1072)年、貞仁(さだひと)親王、白河天皇となる。
応徳3(1086)年11月、息子の善仁(よしひと)親王に天皇の位をゆずり、8歳の堀川天皇が即位。
白河は上皇となり、院庁で院政を始めた。
43年におよぶ院政が始まり、摂政や関白として権力を振るっていた藤原氏が衰え始める。
院庁の警備をするために北面の武士をおくが、北面の武士となった源氏や平氏、特に平氏が力を持つようになる。
中宮・賢子との仲は良く妻妾は多くないが、賢子の死後は身分を問わず多数の女性と関係をもち、それらの女性を次々に寵臣に与えた。
崇徳天皇や平清盛が、「白河法皇の御落胤」という噂が当時から広く信じられた所以だ。
清盛の実父は白河だから、清盛の位階の上がり方が非常に早かったとする有力な説がある。
男色の傾向もあり、近臣として権勢を誇った藤原宗通、あるいは北面武士の藤原盛重や平為俊らは寵童(少年愛)上がり。
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