明石~須磨
「東海道・山陽本線 快速」に乗って約12分。
開放的な瀬戸内海を眺めながらの小さな旅です。
光源氏が、『須磨絵日記』に描いた須磨ノ浦。
現在、夏には関西圏からほど近い海水浴場として賑わう。
明石近海特産の魚介類や練り製品、乾物などを扱う商店を中心に100店舗以上が軒を連ねる.。
岡山に来た当初、「昼食は、明石で名物の明石焼きを、夜は、日生ひなせで本場のカキオコを食べたらいい」と知人に薦められて、明石の【魚の棚】に出かけたことがあります。
明石焼きの幟が掛かっている店に入って、たこ焼きを一回り大きくまた少しだけ贅沢にしたものを予想しながら明石焼きを注文しました。
当然ビールだろうと大ジョッキを傾けながら待っていると、たこ焼きと形がそっくりな明石焼きが---。
瀬戸内海が目の前の【魚の棚】で、名物の中身が 「海の幸」ではないことに驚き、明石在住の方のコレステロール値が心配になりました。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
【弘徽殿】チームが温存していた最後の絵を見るまでもなく、源氏の『須磨絵日記』によって、【梅壺】チームの勝利が確定した。
夜が深まると、源氏はしみじみとした感慨がこみ上げ、帥の宮と酒を酌み交わしながら亡き父、桐壺院の思い出話を始めた。
「わたしは幼いころから学問に打ち込んでおりましたが、少し学問が身に付き始めたころ、故・桐壺院に戒められました。
『学問は、あまりにも世間で重んじられているからであろう。
学問を究めた者で、「長寿」と「幸福」ともに恵まれた者は少ない。
光は高い身分に生まれている、学問はほどほどでよかろう』
そして、「芸道」を薦めてくださいました。
それから、私はいろいろな芸に打ち込みました。
さいわい苦手意識をもった芸はありませんでしたが、そうかといって、人並み外れて上達した芸もありません。
ただ、絵を描くことはひときわ熱心に取り組みました。
どのように描けば見る人の心に届くか、日々工夫を重ねたものです。
その頃、思いもよらず、草深い土地で暮らすことになりました。
都とはまるでちがう、荒涼とした風景が広がっておりました。
目の前には、果てしない海原が横たわっています。
男ばかりほんの数名の従者と須磨に住み始めてしばらく経ったころ、好きな絵を描こうと思い立ちました。
それが、『須磨絵日記』です。
しかし、私の絵筆にはどうしても越えられない限界がありました。
考えられる限りのあらゆる工夫を凝らしたのですが、海の描写はとても難しく思う通りにはいきませんでした。
いつか、『須磨絵日記』を冷泉帝と藤壺尼宮にお目にかけようと思っていたのですが、【絵合】はいい機会だから御覧に入れました」
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今まで見た映画で、もっとも難解だったような気がします。
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