*帖名の『関屋』は、「逢坂の関」の 関守が住む番小屋のこと
*『蓬生』は『末摘花』の後日談、『関屋』は『空蝉』の後日談です
常陸の介は、第3帖の『空蝉』では伊予の介すけ。
右衛門佐うえもんのすけは、もとの小君こぎみ。
河内の守かわちのかみは、もとの紀伊の守かみ。
646年の『大化改新の詔』において、畿内の北限とされた。
逢坂の関は、東海道と中山道が越える交通の要衝だった。
鈴鹿の関、不破の関とともに三関さんかん。
『石山寺の紫式部』 三代目歌川広重画
八月十五夜の月が琵琶湖(瀬田川)に映っているのを眺めていた紫式部の脳裏に、一つの物語の構想が浮かんだ。
すぐに『大般若経』の料紙に、「今宵は十五夜なりけりと思し出でて、殿上の御遊恋ひしく…」と、流謫の貴人(光源氏)が都での生活を回想する場面を記した。
『源氏物語』は、こうして書き起こされたという。
この書き出しは、光源氏が須磨に下っていたある十五夜の夜、都での管絃の遊びを思い出すシーンとして「須磨」の帖に活かされた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
桐壺院が亡くなった翌年、空蝉うつせみは夫の伊予の介が常陸の介になったので、遠い常陸国(茨城県)へ下っていた。
空蝉は、源氏が都を落ちて須磨それから明石でわび住まいをしていることを風の便りで聞いてはいたが、連絡を取るすべもなく筑波の峯のふもとで日々を過ごしていた。
源氏は、およそ3年半ぶりに明石から都に戻った。
その翌年の秋、空蝉は夫の常陸の介ととも帰京する。
源氏が宿願成就のお礼参りのため盛大な行列を連ねて「石山寺」へ向かっているとき、偶然、常陸国から帰ってくる常陸の介の一行と「逢坂の関」ですれちがった。
九月の末で、色とりどりの紅葉があざやかで霜枯れの草むらが趣深いころである。
『関屋』からパラパラと何人ものあざやかな狩衣姿の男たちが現れ出た。
源氏の従者たちだ。
常陸の介一行は牛車を木陰に寄せて源氏の大行列が通り過ぎるまで控えていたが、一行の中に空蝉がいることを聞いた源氏は右衛門佐(小君)を呼び出して言葉をかけた。
帰京して右衛門佐に源氏からの伝言を聞いた空蝉は、遠い日々を思い返してしばらく感傷に浸っていた。
源氏が石山寺参詣から帰京する日に、右衛門佐が迎えにやって来た。
源氏がスキャンダル発覚のため須磨に下った時、そば近くに仕えていた従者たちのうち自分だけが従わなかったことを悔いている。
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