平清盛 六波羅蜜寺蔵
平忠盛は、仁平3(1153)年1月、58歳で死去。
嫡男の清盛が、跡を継いだ。
3年後に保元の乱、さらに3年後に平治の乱。
二つの乱を経て、清盛は権力の階段を急速に昇ってゆく。
保元の乱とは、平安末期の保元元(1156)年7月に皇位継承問題や摂関家の内紛によって、朝廷が後白河天皇方(藤原忠通・平清盛・源義朝ら)と、崇徳上皇方(藤原頼長・平忠正・源為義・源為朝ら)に二分して、武力衝突に至った政変である。
後白河天皇方の、あっけない勝利に終わった。
ちなみに、平忠正は忠盛の弟。
叔父である忠正を斬った清盛を、郎等の家貞が、こっぴどく叱責したという。
平治の乱は、保元の乱から3年後の平治元(1159)年12月に、後白河上皇の近臣間の暗闘が、源平武士団の対立に結びついて勃発した。
清盛が熊野詣で京を離れている間に、藤原信頼や源義朝らが起こしたクーデターが発端。
後白河上皇と二条天皇は幽閉され、藤原通憲(信西入道)は逃亡するが数日後に自害、さらし首にされた。
だが、熊野から急いで引き返してきた清盛によって天皇は内裏を脱出、六波羅邸に迎えられる。
後白河上皇も、仁和寺に退避した。
追い込まれた義朝は、軍勢を率いて六波羅に攻め込むが、激闘の末に清盛に敗れる。
なお、義朝の嫡子・源頼朝は助命されて伊豆に流され、20年後の決起旗揚げまで流人生活を送る。
両乱において、軍事的な中心勢力であった清盛は、目覚ましく官位を上げていく。
たちまち中納言、大納言になり内大臣になると、左右の大臣を経ずして太政大臣になる。
一門も多くが出世して、大臣や大将を平家が独占しそうな勢いであった。
娘の徳子(建礼門院)は高倉天皇の中宮となり、安徳天皇を産んだ。
清盛は、外戚(天皇の外祖父)となる。
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