「女院(にょういん 建礼門院)は世を捨てられたとはいえ、山へ入って花を摘むようなことまでご自分でなさっているのか。気の毒なことよ」
後白河が誰へともなく呟くと、老尼が反論した。
「五戒十善の果報が尽きたので、女院は今はこのようなお暮らしぶりです。西方浄土に往生するため日夜、仏道修行をしておられます。骨身を惜しまれるようなことはありません」
「因果経に、『過去の因果を知りたければ、現在の果報を見よ。未来の果報を知りたければ、現在の因果を見よ』と説かれております。過去と未来の因果を悟れば、少しも嘆くことはありません」
「昔、インドに王子として生まれた釈尊は19歳で迦毘羅城(カピラ城)を出て、檀特山(だんとくさん)のふもとで木の葉を重ねて肌を隠し、峰に上っては薪を集め、谷に下っては水を汲み、難行苦行の末、ついに悟りを開かれたのです」
後白河が改めて老尼を見ると、粗末な布きれを縫い合わせて身にまとっているだけである。
みすぼらしい身なりの老尼が、これほど高度な知識をきわめて論理的に話すのはどうも妙だ。
「一体、おまえは何者だ」
老尼は忍び泣くだけで、しばらく顔も上げない。
「申し上げるのも憚られますが、藤原信西の娘で阿波内侍と申します。母は紀伊の二位(後白河の乳母)でございます」
「あれほど可愛がって頂いておりましたのに、お気づきにならないとは……。わが身が衰えたことを思い知らされるのは、仕方のないこととはいえ、悲しいものでございます」
「そなたは、阿波内侍なのか。分からなかったぞ。ただただ、夢のようだ」
お供の公卿や殿上人らも、「不思議な老尼だと思っていたが、なるほど阿波内侍殿なのか」と得心がいったようだ。
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