むかしを偲ぶよすがにしようと以前の住人が植えていた花橘のやわらかな匂いが、風にのって漂ってきた。
建礼門院がその香りをかいでいると、ほととぎすが二声三声鳴きながら飛んで行った。
花橘とほととぎすの取り合わせに興趣を覚え、硯の蓋にしたためた。
○ほととぎす 花橘の 香を止めて 鳴くは昔の 人や恋しき
季節が移ろって、夜がしだいに長くなった。
荒れ放題の生垣(いけがき:植物を刈りこんで作った垣根)は、草木の生い茂った野辺以上に露に濡れ、秋の虫たちの鳴き声も哀れである。
かつて中宮として時めいていた頃とちがって、今は自分のことを気にかけてくれる人はいない。
そんな時、妹の藤原隆房の北の方や、姉の坊門(藤原)信隆の北の方が、人目を忍んで訪ねて来てくれた。
どうやら、平清盛の娘たちのうち藤原氏北家の有力者に嫁いだ娘たちは、源平対立の外側でわりと自由に暮らせたようだ。
建礼門院は、「お姉さんや妹のお世話になるなんて、思いもしなかった」と、改めてわが身の境遇をかえりみて涙した。
「ここは都に近いし、人の目も多い。いやなことを見聞きしないですむ山奥で暮らしたい」
と思っていた頃、ある女房が教えてくれた。
「大原の寂光院は静かです」
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