ふとした時、建礼門院には、あの壇ノ浦における壮絶な、しかし白昼夢のような光景がよみがえってきた。
孫の安徳天皇を身体が離れないようにしっかりと抱いて、真っ先に海に飛び込んだ二位尼。
二人のあとを追うように、女房たちが次々に海に身を投げる。
しばし、海上が女房たちの鮮やかな衣装の色に染まった。
それから、海の底に向かって長い黒髪をなびかせながら沈んでゆく。
建礼門院自身も、身を投じたのだが……。
今、ここに、こうして、いる。
思い起こすたびに、決まって後悔のほぞをかんだ。
わたしはなぜ、源氏の武者に海中から引き上げられたのか。
身体につけた「重し」が十分ではなかったのか。
二位尼はなぜ、わたしに任せず自ら孫の安徳を抱き上げて入水したのか。
わたしの死への覚悟が足りないことを見透かしていたのか。
建礼門院は、生き長らえたことが今さらながらに辛かった。
幼いころからの自分の来し方を思うにつけ、遣る瀬なくて悲しくて涙が止まらない。
夜は、眠ることはおろか、まどろむことさえ出来ない。
雨の夜は、ひと晩中、屋根や窓をたたく陰鬱な雨の音を聞いて夜を明かした。
はたして、人の不幸や悲しみの大小を比較できるものかどうか……。
『平家物語 (灌頂の巻)』の作者は、建礼門院の悲しみの大きさを、中国の故事を借りて、あらまし次のように描く。
唐の玄宗皇帝は稀代の美女・楊貴妃を寵愛するあまり、宮廷に仕えている他の官女たちを見向きもしなかった。
玄宗に相手にされない、飼い殺しの憂き目にあっている官女たちの悲しみよりも、建礼門院の悲しみの方が大きかったというのである。
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