その頃の朝廷は、壇ノ浦で入水した安徳天皇の異母弟・後鳥羽上皇の時代だが、後鳥羽は政治をほったらかして詩歌管弦や遊興にうつつを抜かしていた。
政治は乳母の卿の局(藤原範子)が好き放題に取り仕切って、世情は乱れ、心ある人々は嘆いていた。
古今東西、上の好むところに下の者が従うのが世の習いである。
呉王・闔閭(こうりょ)は、剣客を好んだので、天下に怪我人が絶えなかった。
楚王・霊王(れいおう)は、ほっそりした腰つきの女性を好んだので、宮中に飢え死にする女性が多かった。
守覚法親王は優れた人物で、学問を怠らなかった。
文覚は、伊豆に流されていた頼朝をそそのかして、平家を打倒させたほど政治好きの野心家である。
建久10年(1199)1月13日、頼朝が53歳で亡くなると、文覚は守覚法親王を皇位につけようと、謀反を起こした。
だが、たちまち企てが露見。
80歳すぎの高齢で召し捕られ、隠岐に流される。
都を落ちるとき、文覚は地団駄を踏んだ。
「これほどの老骨を都の片隅ではなく、はるばる隠岐まで流すとは。毬杖(ぎっちょう)狂い(後鳥羽)は許せん。いまに見ろ、わしが流される国に必ず迎えてやる」
後鳥羽があまりに毬杖に夢中だったので、文覚はそんな悪態をついたのだ。
承久3年(1221)、後鳥羽が承久の乱を起こして失敗。
鎌倉幕府によって隠岐へ流されたのだから、文覚との宿縁の深さが思われる。
文覚の亡霊が現れて、後鳥羽にいろいろ話をしたという。
六代は、父・維盛の足跡をたどったあと、三位禅師と称して高雄の神護寺で仏道修行していたが、やはり六代の存在が不安な頼朝によって、捕らえられた。
「六代御前は、維盛郷の子であり文覚房の弟子。頭を剃っても、心までは剃るまい」
六代は東国に連行され、相模の田越川のほとりで斬られた。
12歳より30余歳まで命を保てたのは、ひとえに長谷観音の御利益といわれた。
こうして、平家は名実ともに絶える。
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中国の習近平主席は就任演説で、「戦争に必ず勝てる軍事力をもつ」と公言するし、北朝鮮の金正恩第1書記は、「核には核で応じる」などと物騒なことをいう。