公家平氏と武家平氏
文治元年(1185年)9月23日、頼朝は都にいる平家一門の残党をことごとく流罪にするよう公家たちに申し伝えた。
ならばと、次のように流罪地を決めた。
平時忠は能登国(石川県)、内蔵頭信基は佐渡、平時実は安芸、平尹明は壱岐、二位僧都全真は阿波、法勝寺執行能円は上総、経誦坊阿闍融円は備後、中納言律師忠快は武蔵。
ある者は西海の波の上、ある者は逢坂関の雲の彼方へ、ほんの数人の供回りの者と、親しい人々に再び会えるかどうかも分からず、別れの涙をこらえながら、それぞれの見知らぬ流刑地へと赴いた。
彼らの心の内は察するほどに哀れである。
時忠は、姪の建礼門院徳子に別れの挨拶に出向いた。
「いよいよ配所に赴きます。最後のご挨拶をするために、役人に時間をもらって参りました。都であなたの役に立ちたいと思っていたのですが、このような身になってしまいました。私がいなくなった後、どのようにお暮しになるのかと心残りです」
時忠が泣きながら告げると、建礼門院も涙が止まらなかった。
「壇ノ浦から都へ連れ戻されて以来、昔から知る人は叔父上だけでした。これから誰を頼ればよいのでしょう」
この時忠は平知信の孫、時信の子である。
時忠の系統は、清盛の系統と同じ桓武天皇の末裔ながら地方に土着して武士化せず、中級の公家としてずっと朝廷で暮らしてきた。
武家平氏である清盛の目覚ましい立身出世とともに、公家平氏の面々もずいぶんと羽振りが良くなってゆく。
時忠は高倉天皇の外戚にして、後白河法皇の后で高倉の母・建春門院滋子の兄、また清盛の妻・二位尼時子の弟である。
この上なく、きらびやかな閨閥だ。
「平家にあらずんば人にあらず」と口走ったのは、他ならぬこの時忠である。
正二位大納言にほどなく昇進し、検非違使別当には3度就いた。
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平家物語の群像 頼朝の布石②公家平氏と武家平氏
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