鵯越の逆落とし 『源平合戦図屏風』の「一ノ谷」
源氏がいとこ同士で争っている間に、平家は西国で勢力を回復した。
寿永2年(1183)、讃岐(香川県)の屋島に本拠地を構え、福原(神戸)に渡って、一の谷に城郭を築き生田の森を正門とした。
山陽道8カ国と南海道6カ国の計14か国を討ち従えて、10万騎が集まったという。
「清盛のころの栄耀栄華よ再び!!」
元暦元年(1184)1月、後白河が平家追討の院宣を発令。
鎌倉軍は二手に別れ、範頼軍(大手軍6万騎)が生田の森方面から、義経軍(搦手軍1万騎)が一の谷方面から攻めた。
だが、何度も突撃するが平家方から雨あられのような矢を浴びて撤退、戦局は膠着状態に陥った。
この戦況を一変させたのが、義経の奇策である。
同年2月7日、別働隊のうちの70騎を率いて、鵯越の峻険な崖から逆落としをしかけて平家の陣営を急襲した。
平家方は奇襲によって大混乱になり、われ先に四国の屋島へ逃げていった。
鎌倉勢は平家一門の名のある多くの武将を討ち取る戦果を挙げ、範頼は鎌倉に義経は京都に凱旋する。
義仲追討と一ノ谷の戦いでの目覚ましい活躍によって、それまで無名だった義経が歴史の表舞台に登場した。
合戦後、朝廷の小除目(こじもく:臨時の人事)が行われ、頼朝の推挙によって範頼ら源氏3人が国司に任ぜられたが、任官を願っていた義経の名はなかった。
同年8月6日、義経は頼朝の推挙を得ずに、法皇によって左衛門少尉と検非違使少尉(判官)に任官し、従五位下に叙せられ院への昇殿を許される。
頼朝には、「任官は自ら望んだものではなく、法皇が義経の勲功を無視できないとして任じられたので、固辞できなかった」と報告した。
頼朝は、「九郎がわが意向に背くのは今度ばかりではない」と激怒。
義経を平家追討から外した。
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海上自衛隊の艦隊と中国海軍の艦隊が、東シナ海に展開しているようです。おそらく米軍の潜水艦も。一触即発の危機か。