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Clik here to view. 源頼朝 東京国立博物館
平家一門を都から追い落としたのは義仲だが、後白河法皇は平家追討の功績について、頼朝を第1、義仲を第2とした。
頼朝が源氏の嫡流で実力も上、と見ていたのだろう。
ちなみに、第3の功労者は彼らの叔父・行家である。
義仲が、平家とともに都落ちした安徳天皇の後継に自らが擁立した北陸宮(以仁王の遺児)を据えることを主張して、後白河や公家たちの怒りを買った。
「武士ふぜいが、皇位継承に口出しするとは何事だ」というわけだ。
義仲⑤皇位継承への介入
そして寿永2年(1183)10月、後白河が頼朝に、「上洛して義仲を討って欲しい」という院宣を出したことで、ふたりの対立は決定的になる。
義仲⑦後白河との対立
院宣を受けて、頼朝は、義仲討伐のため異母弟の範頼(のりより 義経の異母兄)を大将として、6万余騎の大軍を派遣した。
頼朝は範頼と義経に遠征軍の指揮を任せ、自らは本拠地の鎌倉に腰を据えて東国の経営に専念するようになる。
この頃になると、頼朝は義経の軍人としての天才的な能力を見抜いていたと思われる。
東シナ海、波高し。「今の中国は日清戦争の頃の中国ではない」軍幹部
範頼は、伊勢で都の様子を探っていた義経と合流、二手に分かれて都を目指した。
範頼は3万5千騎を率いて近江路をとって瀬田に向かい、義経は2万5千騎を率いて伊賀路を宇治に向かう。
寿永3年(1184)正月20日、義経は宇治川に到着した。
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平家物語の群像 義経⑩義仲との対決へ
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