治承4年(1180)、木曽義仲は以仁王の平家追討の令旨に応じて信濃 (長野県) で挙兵。
翌年、平家方の越後守・城長茂 (じょう ながもち)の1万の軍勢を横田河原の戦いで破り、北陸道方面に勢力を広げた。
義仲③上洛途上
寿永2年(1183)4月、平家は維盛を総大将とする10万騎の大軍を北陸道へ派遣。越前 (福井県) の火打城の戦いで勝利し、義仲軍は越中 (富山県) へ後退した。
同年5月9日早朝、義仲四天王の一人・今井兼平が般若野(はんにゃの 富山県)で平家軍の先遣隊・平盛俊の軍勢を奇襲し退却させた。(般若野の戦い)
巴①源義仲、木曽谷へ逃れる
一旦後退した平家軍は、能登 (石川県) の志雄山に平通盛と平知度の3万余騎。
加賀 (石川県) と越中の国境の砺波山に、維盛や平忠度らの7万余騎の二手に分かれて布陣した。
5月11日、義仲は叔父・源行家の兵を、志雄山へ向かわせて平家軍を牽制。
義仲本隊は、砺波山へ向かう。
兼平の兄でやはり義仲四天王の一人・樋口兼光の手勢を、平家軍の背後に回らせた。
そうして平家の将兵が寝静まったころ、義仲軍は突然、大音響を立てて攻撃を仕掛けた。
深夜の奇襲に浮き足立った平家勢はあわてて退却しようとするが、退路には兼光勢が待ち構えている。
大混乱に陥った平家軍7万余騎は、敵勢のいない方向へわれ先に逃れた。
だが、そこは倶利伽羅峠の断崖。将兵が次々に谷底に転落して、平家軍は壊滅的な打撃を受けた。
維盛は、またしても命からがら逃げ帰った。
なお 『源平盛衰記』 には、この時の攻撃で、義仲軍が数百頭の牛の角に松明を括りつけて敵陣に向けて突進させた 「火牛の計」 という戦法が登場する。
829年後のいま思うに、都育ちの舞いの名手が、山国育ちの木曾冠者と、山岳地帯で戦ったこと自体が間違っている。
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