治承4(1180)年8月29日、絶体絶命のピンチで、思いかけず景時に救われた頼朝は、
夜の闇にまぎれて船で安房国 (千葉県南部) へ逃れた。
安房で再び挙兵を呼びかけると、千葉常胤 (つねたね 桓武平氏の流れ) 、上総広常 (平広常 桓武平氏の流れ) ら地元の有力武士団が続々と馳せ参じて、
頼朝軍は、わずかの間に数万の大軍に膨れ上がった。
ここでお分かりのように、俗に 「源平合戦」 と呼ばれる 「治承・寿永の乱」 は、決して 「源氏と平氏の戦い」 ではない。
清盛と同じ桓武平氏の流れをくむ上総広常は東国最大の勢力で、約2万の軍勢を擁していた。
彼が頼朝の旗下に参陣したことが、頼朝挙兵の成功を決定づけたといわれている。
10月6日、かつて父義朝と兄義平が住んていた鎌倉へ入り、大倉御所をかまえて政治の拠点とした。
10月16日、頼朝追討の宣旨を受けた平維盛率いる平家軍を、富士川の戦いで破り、大庭景親を捕らえて斬った。
12月、景時は、土肥実平を通じて頼朝に降伏。
翌養和元(1181)年正月、頼朝と対面して御家人に列した。
弁が立って教養のある景時は頼朝に見込まれ、さっそく鶴岡若宮の造営や囚人の監視、
北条政子出産の際の世話係など、諸事に用いられる。
寿永2(1183)年12月、上総広常と双六を打っていた景時は、いきなり双六盤をのりこえて広常の頸を斬った。
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