日ごろ、清盛に恩義を感じていた頼政が、なぜ謀反を起こしたのか。
『平家物語』は、頼政の嫡男仲綱の名馬 (木の下) をめぐって、宗盛がひどい侮辱を仲綱に加えたことが原因としている。
つまり、息子が受けた侮辱に耐えかねた頼政が、武士の意地から以仁王の邸を訪ね、「令旨」という大義名分を得て、平家打倒の兵を挙げたというのだ。
一方、頼光以来の大内守護として鳥羽院直系の近衛・二条天皇に仕えた頼政が、系統の異なる高倉・安徳天皇の即位に反発したという説もある。
また、以仁王との共謀自体、頼政挙兵の動機を説明づけようとした『平家』の創作で、出家している頼政が園城寺 (三井寺) 攻撃の命令に反対したため、平家に捕らえられることを恐れて、やむなく謀反に踏み切ったとする説もある。
思うに、保元・平治の乱をへて為義や義朝らが敗死して河内源氏がほぼ壊滅したあとの平家全盛の世で、
摂津源氏の頼政がただひとり、中央政界に残っていることに対する世間や平家一門をふくめた貴族らの、心ない言葉や仕打ちが少なからずあったのではないだろうか。
さて、木の下は馬身は褐色で、尻尾や脚先などは黒い鹿毛 (かげ) 、乗り心地、疾走する姿、気性、すべて天下無双の名馬と言われ、内裏にまで聞こえていた。
この木の下を、平家一門の愚か者代表宗盛がほしくなった。
平知盛①見るべきほどのことは見つ 参照
(原文) 宗盛卿使者を立て、「聞え候ふ名馬を賜はつて見候はばや」と宣ひ遣はされければ、伊豆守の返事には、「さる馬をば持ちて候ひしを、このほどあまりに乗り疲らかして候ふほどに暫く労らせんが為に田舎へ遣はして候ふ」と申されければ、「さらんには力及ばず」とてその後沙汰もなかりけるが
(訳) 宗盛が使者を立てて、「評判の名馬を譲ってほしい」と伝えさせると、仲綱が、「そういう馬を持ってはいますが、この頃乗り回しすぎたので、しばらく休ませるために田舎へ置いてあります」と言ったので、
「それなら、仕方がない」と、その後は何もなかったが、
(原文) 多く並み居たりける平家の侍ども、あつぱれその馬は一昨日も候ひつ、昨日も見て候ふ、今朝も庭乗りし候ひつるなど口々に申しければ、
(原文) 「さては惜しむごさんなれ、憎し、乞へ」とて侍して馳せさせ、文などにても一日が内に五六度七八度など乞はれければ、三位入道これを聞き伊豆守に向かつて宣ひけるは、「たとひ金を丸めたる馬なりともそのほどに人の乞はうずるに惜しむべきやうやある。
その馬速やかに六波羅へ遣はせ」とこそ宣ひけれ。
(訳) 「さては物惜しみしたな、憎い奴だ。手に入れてこい」と使者を走らせ、手紙などでも1日に5・6度、7・8度としつこく要求したため、頼政がそのことを知って、仲綱に、「たとえ黄金で作った馬であっても、それほど人が所望するものを惜しむべきではない。すぐに六波羅へくれてやれ」と言った。
仲綱は、和歌を一首、書き添へて六波羅へ送った。
○恋しくば 来ても見よかし 身にそふる
かげをばいかが 放ちやるべき
それほど恋しいなら、こちらへきてご覧なさるがよい。私の身に添って離れることのない影のような鹿毛を、どうして手放すことができましょうか
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