
「白河殿夜討」 (江戸時代) メトロポリタン美術館所蔵
源頼政は、平時忠が 「平家に非ずんば人にあらず」 と豪語したほどに平家一門がわが世の春を謳歌していた清盛政権下、中央政界で源氏一族の長老の位置を占めていた。
摂津源氏の頼政にとって、ライバル河内源氏が保元・平治の乱を経て、壊滅的な打撃を受けたからだ。
もちろん、権力を握った平清盛に忠実だったからでもある。
保元元(1156)年7月、鳥羽上皇が崩御すると、朝廷内で権力争いが起きた。
天皇家では崇徳上皇と後白河天皇が、摂関家では藤原頼長と藤原忠通が対立。
それぞれ、源平を巻き込んで骨肉の戦いを繰り広げた。
★崇徳上皇方(兄) 藤原頼長(弟) 平忠正(叔父) 源為義(父)為朝(弟)
★後白河天皇(弟) 藤原忠通(兄) 平清盛 (甥) 源義朝(兄) 源頼政
この保元の乱は、後白河方の勝利で終わる。
親子兄弟が敵対して戦った河内源氏が受けた打撃の大きさは、容易に想像がつこう。
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平治元(1160)年12月9日、今度は、院近臣らの対立により平治の乱が勃発する。
実質的には、平家の清盛と源氏の義朝が、雌雄を決する戦いになった。
★藤原信西 平清盛 平重盛 源頼政(初めは信頼方)
★藤原信頼 源義朝 源義平 (頼朝、流刑)
この平治の乱で信西・清盛方が勝利すると、それまて源氏の主流だった河内源氏は没落、朝廷から姿を消した。
なお、信西は勝利した側のリーダー格でありながら、敵兵の探索から逃げている途中、自害している。
頼政は生き残ったが、保元の乱では後白河方の味方をして戦ったが恩賞にはほとんど預かれず、平治の乱のときも同族の義朝を敵に回してまで戦ったが、恩賞はわずかだった。
また乱後、嫡男の仲綱とともに、摂津源氏の祖・頼光以来の大内守護 (内裏を守護した職名) を何年も務めたが、昇殿はなかなか許されなかった。
こうみてくると、頼政には、かなり不満が募っていたのかも知れない。
相当老齢になってから (清盛より14歳ほど年長) 、自分の境遇を嘆くような和歌を一首詠んだ。