千手の前 菊池容斎画 江戸時代 『前賢故実』より
狩野宗茂 (かのうむねしげ) は家人に指図して湯殿に湯を引かせると、重衡に旅の汚れを落とすように勧めた。
重衡が、汗を流して身ぎれいにしてから殺されるのかと思っていると、20歳ほどの女房が入浴の際に身に着ける湯巻き姿で、湯殿の戸を開けて入ってきた。
色白で、清潔な感じの美しい女である。
それから14、5歳ほどの童女 (ワラワメ; 少女) が、櫛を入れた盥をもって入ってきた。
女房は言葉少なに重衡の髪を洗ったりして入浴の世話をすると、帰りがけに、重衡へ小さく声を掛けた。
「男の方では無愛想と思われたのでしょうか。『女のほうか良かろう』との頼朝様の言いつけで参りました。
また、重衡様に何かご希望があれば、どんなことでもお聞きして、伝えるようにとの仰せでした」
血も涙もないイメージの強い頼朝さん、重衡さんに対して随分あたたかな心配りである。
「(原文) 今はかかる身となりて何事をか思ふべき。ただ思ふ事とては出家ぞしたき」
「このような身となって、何を思うだろうか。ただ、出家したい」
女房が承わって、頼朝に伝えた。
「(原文) それ思ひも寄らず。私の敵ならばこそ朝敵として預り奉りたれば叶ふまじ」
「出家とは、思いもよらなかった。私個人の敵ならともかく、朝敵としてお預かりしているゆえ、出家はできない」
女房が戻ってきて、重衡に頼朝の言葉を伝えた。
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重衡が、狩野宗茂に尋ねた。
「(原文) さても只今の女房は優なりつる者かな。名をば何と云ふやらん」
「それにしても、さっきの女房はやさしくて優雅な娘だったが、名を何という」
「あれは、手越 (静岡市) の長者の娘で、見目麗しいうえに気立てがいいので、ここ2、3年、頼朝殿にお仕えしている者です。名を、千手の前といいます」
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平家物語の群像 千手の前②ただ思ふ事とては出家ぞしたき
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