「一の谷で自害しようとしたが生け捕りにされ、京と鎌倉で恥をさらした。そして、奈良の衆徒に引き渡され、斬られる為にやって来た。元気な姿をもう一度見て、
見せもしたいと思っていた。もはやこの世に思い残すことはない。頭を剃って形見に髪の毛を渡したいが、このような有様なので、そうもできない」
重衡はそういうと、額の髪をかき分けて口にかかった毛を歯で噛み切った。
「これを形見として残しておこう」
大納言典侍は思いが込み上げたのか、うつ伏してしまった。
ややあって、涙声でいう。
「二位の尼様や小宰相様のように、入水すべきだったのでしょうが、あなた様が亡くなられたとも聞いていなかったので、今一度、お会いしたいと思って生き長らえてきたのです。
それも、今日を限りとなりました」
それからふと気が付いたのか、「余りにみすぼらしいお姿です。お着替えなさって下さい」と、袷 (あわせ) の小袖と浄衣を、奥の部屋から出してきた。
重衡は着ていた服を、「これも形見に」と渡した。
大納言典侍は、「それも形見になりましょうが、筆跡こそ、後の世までの形見になります」と、硯(すずり)を持ってきた。
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重衡が、一首詠む。
○せきかねて 涙のかかるから衣 後の形見に 脱ぎぞ替えぬる
(とめかねた涙にぬれた衣を 形見として脱ぎかえていきます)
大納言典侍の返歌。
○ぬぎかふる 衣も今は何かせむ 今日を限りの 形見と思へば
(着替えられたお召し物も、今日を限りのお別れです。どうしたらいいのでしょう)
重衡は、「契りがあれば、来世でも必ず再会できる。日も暮れてしまった。奈良へはまだ遠い。護衛の武士を待たせるのも悪い」と立ち上がった。
大納言典侍は重衡の袂に泣きすがって、「ねぇ、もう少し、あと少し」と引き留めた。
「私だって別れたくはない。だが、もう定まった身。来世また会おう」
思いを断ち切って、出発した。