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風雅の人・平忠度(ただのり)は、紀州熊野の育ちで、怪力と早わざの持ち主であったという。
熊野育ちといえば、怪力無双の悪僧で源義経の家来、武蔵坊弁慶と同郷である(『平家物語』による)。
忠度は、都育ちの異母兄弟や甥たちとは毛色のちがう、堂々たる体躯を誇っていたのではないだろうか。
平家一門が公家化する以前の、地方に土着の武士として山野を駆け回っていたころの野性的な血が流れていた、最後の人物なのかもしれない。
その薩摩守は、一の谷の戦いでは、谷の西側を大将軍として守っていた。
源氏軍の主力は、都のある東からやって来るだろう。
平家の精鋭部隊は、知盛(とももり)と重衡(しげひら)を大将軍として、一の谷の東部方面に布陣した。
忠度が指揮を執る西側の兵には平家の家来は少なく、多くが諸国からの寄せ集めであった。
烏合の衆は、義経の奇襲で形勢が不利になると、クモの子を散らすように逃げてしまった。
…… ……
○薩摩の守忠度は、西の手の大將軍にておはしけるが其の日の装束には、紺地の錦の、直垂(ひたたれ)に、黑絲縅の鎧著て、黑き馬の太う逞しきに、沃懸地(いつかけぢ)の鞍置いて乘り給ひたりけるが、
忠度は、一の谷西側の大将軍で、紺地の錦の直垂に黒糸おどしの鎧を着、黒の太くたくましい馬に、ゐかけ地(漆塗りの上に金粉をふりかけた)の鞍を置いて、乗っていたが、
○其の勢百騎ばかりが中に打圍まれて、いと騷がず控へ控へ落ち給ふ所に、こゝに武藏の國の住人岡部の六彌太忠純、よき敵と目を懸け、鞭鐙を合せて追っかけ奉り、あれは如何に、よき大將軍とこそ見參らせて候へ。正(まさ)なうも敵に後を見せ給ふもの哉。返させ給へと言(ことば)を懸けければ、
敵勢百騎ばかりに囲まれても慌てず、時々馬をとめて戦いながら落ちて行くのを、岡辺六野太忠純(おかべのろくやたただずみ)が目をつけ、馬に鞭打って忠度を追っかけて、「敵に後ろを見せるとは卑怯ですぞ。お戻り下さい」と声をかけると、
○これは御方(みかた)ぞとて、ふり仰(あふの)き給ふ内甲(うちかぶと)を見入れたれば、鐵漿黑(かねぐろ)なり。
「味方だぞ」と言って忠度が振り返った兜の中を覗きこむと、お歯黒で歯を黒く染めている。
○あつぱれ、味方に鐵漿(かね)付けたる者はなきものを。如何樣(いかさま)にも、これは平家の公達にてこそおはすらめとて、押雙べてむずと組む。
源氏方にお歯黒をしている人はいない。平家の公達にちがいないと思い、馬を押し並べてむずと組んだ。
…… 原文に忠実な訳ではありません ……
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平家物語の群像 忠度⑤一の谷の戦い
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