能登守教経 (国盛)
平教経(国盛)にまつわる落人伝説
寿永4(1185)年2月19日、平家は屋島の戦いで義経軍に敗れ、生き残った一門の者たちはそれぞれ各地へ逃れ、それらの場所に住みついた。
そして、今に至るまで彼らの末裔がそこに暮らしている。
徳島県の祖谷(いや)地方に伝わる伝説によると、平教盛(のりもり)の次男・教経(落人伝説では以後、国盛と表記)は、宝剣と安徳天皇を奉じ、手勢わずか百余騎を率いて屋島から陸路を東に逃れていく。
水主(かこ)村(香川県大内町)にしばらく潜んだ後、大山(阿讃山脈=讃岐山脈)を越え、吉野川をさかのぼって、山深い祖谷地方の大枝岩屋に身を隠した。12月の大晦日であった。
翌朝,名主の喜多氏の屋敷へ行くと,元旦の酒宴を催していた喜多氏は国盛の立ち入りを拒んだ。
ちなみに、祖谷地方は、那須大八郎と鶴富姫の椎葉村と、合掌造りで有名な世界遺産白川郷とともに、日本三大秘境を形成する。
…… ……
○「さては大将軍に組めごさんなれ」と心得て、打ち物茎短に取つて源氏の船に乗り移り乗り移り、をめき叫んで攻め戦ふ。
「大将軍と組めというのだな」と、太刀を短く持って、源氏の船にいくつも乗り移って、大声をあげて戦う。
○判官を見知りたまはねば、物の具のよき武者をば、判官かと目をかけて馳せ回る。判官も先に心得て、表に立つやうにはしけれども、とかく違ひて、能登殿には組まれず。
教経は義経の顔を知らないので、立派な身なりの武者が義経だろうと目星をつけて走り回る。義経も心得ていて、前線で戦うようにはしていたが教経とは組まなかった。
○されどもいかがしたりけん、判官の船に乗り当たつて、「あはや」と目をかけて飛んでかかるに、判官かなはじとや思はれけん、長刀脇にかいばさみ、御方の船の二丈ばかり退(の)いたりけるに、ゆらりと飛び乗りたまひぬ。
しかしどうしたことか、教経が義経の船に行きあたった。「あれか」と飛び掛かかると、義経はかなわないと思って長刀を脇に挟み、2丈(約6m)離れていた味方の船に飛び移った。
…… 原文に忠実な訳ではありません ……
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平家物語の群像 平教経②判官を見知りたまはねば
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平家物語の群像 平教経③恐ろしなんどもおろかなり
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国盛の来訪を拒否した喜多氏とは合戦になり、喜多氏を滅ぼした。
国盛は大枝にしばらく滞在していたが、阿佐常陸守の招きにより阿佐に移って定住する。
一方、安徳天皇を奉じている別働隊は、麻植郡から石立山へ護衛して行き、そこに暫く待機していたが、国盛が祖谷を平定したことを聞いて祖谷に入った。
久保大宮の樹木が茂っている所を通るとき梢を倒したので、その場所を「鉾伏せ」という。
安徳が装束を着替えた石を、「装束石」という。
谷を渡る時、安徳を手渡しした所が、「皇上の手橋」。
これらの遺跡は、現在も東祖谷の久保にある。
おかしいぞ?
『平家物語』では、平国盛(教経)と安徳は壇ノ浦の戦いで敗れたとき、入水したはずだ。
ところが『落人伝説』では、二人とも屋島の戦いに敗北した際に、祖谷に逃れて定住した。
安徳はほぼ1年後に亡くなっているが、国盛の末裔は今も『阿佐家』として存続し、平家の赤旗が残っている。
私自身、その赤旗が夏の抜けるような青空をバックに樹間にはためくのを見上げた記憶がある。
ついでながら、鎌倉幕府の史書『吾妻鏡』によると、教経は一の谷の戦いで義経軍に討たれている。
いったい、これは?
……
○能登殿は、早業(はやわざ)や劣られたりけん、やがて続いても飛びたまはず。
教経は早わざでは劣っていたのか、お飛びにならない。
○今はかうと思はれければ太刀・長刀海へ投げ入れ、甲も脱いで捨てられけり。鎧の草摺(くさず)りかなぐり捨て、胴ばかり着て大童(おほわらは)になり、大手を広げて立たれたり。
そして、今はこれまでと、太刀と長刀を海に投げ入れ、甲も脱いでお捨てになった。鎧の草摺りをかなぐり捨て、胴のみを着て、ざんばら髪で大手を広げて立っておられた。
○およそあたりを払つてぞ見えたりける。恐ろしなんどもおろかなり。
その姿は、近寄りがたかった。恐ろしいどころではない。
…… 原文に忠実な訳ではありません ……
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平家物語の群像 平教経④頼朝に会うて、ものひと言いはん
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平教経(国盛)は、『平家物語』では壇ノ浦で入水、『吾妻鏡』では一の谷で討ち死に、『落人伝説』では阿波(徳島)の祖谷へ逃れて生き延びた、ということになっている。
三者三様だが、断るまでもなく教経は一人しかいない。
それでは、どの説が史実なのだろうか。
平家物語と落人伝説は、それぞれ『物語』であり『伝説』だ。
必ずしも、史実でなければならないという制約はない。
平家物語は作者の思想や主張を平家の興亡を借りて表現した文学作品であり、落人伝説は「はかなく散った平家ゆかりの人々にもっと長生きしてほしかった」という一般庶民のあたたかい同情と願いの結晶なのではないだろうか。
それではなぜ、史実ではない場合でも、彼らにまつわる子孫や遺跡などか各地に現存しているのか。
教経と安徳天皇の最期に関しては細部はともかく、平家物語の記述が正しいということが明らかになっている。
つまり、史実としては、二人とも壇ノ浦で入水している。
それなのになぜ、祖谷に『阿佐家』という教経の末裔といわれる人々が暮らしていたり、安徳ゆかりの「装束石」や「皇上の手橋」などの遺跡が現存しているのか。
★この辺の事情に詳しい方がもし読まれていたら、教えて頂けませんか
吾妻鏡は初代将軍の源頼朝から第6代・宗尊親王までの鎌倉幕府の事績を、北条氏の立場から編年体で記した歴史書。
可能な限り、史実に即して書くべきものだろう。
…… ……
○能登殿、大音声をあげて、「われと思はん者どもは、寄つて教経に組んで生け捕りにせよ。鎌倉へ下つて、頼朝に会うて、ものひと言言はんと思ふぞ。寄れや、寄れ」とのたまへども、寄る者一人もなかりけり。
「われこそと思う者は、教経に組んで生け捕りにせよ。鎌倉に下って、頼朝に言いたいことがある」と大声でおっしゃるが、近寄る者はいなかった。
○ここに土佐国の住人、安芸郷を知行しける安芸大領実康(さねやす)が子に、安芸太郎実光(さねみつ)とて、三十人が力持つたる大力の剛の者あり。われにちつとも劣らぬ郎等一人、弟の次郎も普通には優れたるしたたか者なり。
土佐の住人で、安芸郷を領有していた実康の子で、実光という30人力の剛の者がいた。そして、実光に少しも劣らない家来が一人、弟の次郎も人並みすぐれた剛勇の者だった。
…… 原文に忠実な訳ではありません ……
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平家物語の群像 平教経⑤いかに猛うましますとも
能登守教経 月岡芳年
吾妻鏡は専門家にとって鎌倉時代研究の基本史料だそうだ。
基本史料に間違いがあっては、そこから派生する研究成果が全ておかしくなるだろう。
ところが、教経についての記述は間違っている。
教経は、一の谷の戦いで討ち取られたと記しているのだ。
ここでも、教経と腐れ縁の義経が絡む。
一の谷で、義経軍の安田義定が教経を討ち取った。
義経らは、そういうことにしていた。
そして、京へ凱旋してほかの平家の公達とともに都大路を引き回したとき、見物人の間から、「教経の首は本物ではない」という声が上がった。
関白九条兼実の『玉葉』(客観性の高い基本史料)等の公家日記にも、一の谷の戦いにおける死者の中に教経の名はない。
法然に帰依しているほどの兼実本人は、重衡による南都焼き討ち事件以来、平家を嫌って源頼朝に近い。
なお、壇ノ浦の戦いを記した同時代資料『醍醐雑事記 巻十』の「自害者」の項に、「能登守教経」の名前が記されている。
義経が戦果を誇示するために教経のニセの首を加えたとすれば、あまりに愚かと言わざるを得ない。
愚かというよりも、にわかには信じられないレベルだ。
そして、それをそのまま記載した鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』もどうかしている。
義経からの報告以来、一の谷の戦いと教経に関する情報は鎌倉に入らなかったのだろうか。
原文では、いよいよ教経が壇ノ浦に飛び込みそうだ。
入水を待ってもらって、『落人伝説』に戻らねばならない。
…… ……
○安芸太郎、能登殿を見たてまつて申しけるは、「いかに猛うましますとも、われら三人取りついたらんに、たとひたけ十丈の鬼なりとも、などか従へざるべき」とて、主従三人小舟に乗つて、能登殿の船に押し並べ、「えい」と言ひて乗り移り、甲のしころを傾け、太刀を抜いて、一面に打つてかかる。
太郎が教経を見て、「いかに勇猛であられようと、われら三人が組みつけば、たとえ身の丈十丈の鬼であろうと屈服させられないことがありましょうか」と、主従三人で小舟に乗り、教経の船に並べ、「えい」と乗り移り、甲の首筋をおおう部分を傾けて太刀を抜き、いっせいに打ってかかった。
…… 原文に忠実な訳ではありません ……
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平家物語の群像 平教経⑥さらばおれら死出の山の供せよ
平教経入水直前 平家物語歴史館 香川県高松市
讃岐の屋島における義経軍との戦いに敗れた教経は、自分と瓜ふたつの家臣に身代わりを命じ、平家再興の望みを捨てきれず、安徳天皇を奉じて阿波の祖谷へ落ち延びた。
三種の神器のひとつである草薙剣をたずさえている。
壇ノ浦でひとしきり暴れ回ったのちに入水した剛勇の士は、教経本人ではなく家臣だったのだ。
本人は、教経の名を封印して国盛という幼名に戻り、祖谷地方を平定して、阿佐に住みついた。
祖谷の阿佐家の人々は平教経直系の末裔であり、現在も平家の赤旗と呼ばれる大小二流の旗と、系図および宝刀を所蔵しているそうだ。
二流の平家の赤旗は、本陣用の大旗と戦場用の小旗で、それぞれ「八幡大菩薩」の文字が書かれ、小旗には平家の紋の「向かい蝶」が描かれている。
→ (平教経④頼朝に会うて、ものひと言いはん 写真参照)
国盛は、承元2(1208)年に死去したという。
国盛の長男の氏盛は阿佐氏を、次男の盛忠は久保氏を名乗り、彼らの子孫は阿波山岳武士と呼ばれた。
阿佐氏は、鎌倉時代から南北朝・室町時代と生き抜いて、戦国時代には金丸城主となった。
「阿波国旗下幕紋控」に、鈴江氏および守貞氏とともに平家の家紋である「揚羽蝶紋」を用いたことが記されている。
また、『阿波国徴古雑抄』によると、三好氏に属して、細川氏と対立した三好氏を金丸城にかくまったこともあるという。
江戸時代、蜂須賀氏が阿波に入ると、20石を給付された。
いま、阿佐氏の住居は「平家屋敷」として、秘境祖谷の観光スポットになっている。
…… ……
○能登殿ちつとも騒ぎたまはず、まつ先に進んだる安芸太郎が郎等を、裾を合はせて、海へどうど蹴入れたまふ。
教経は少しも騒がず、真っ先に挑んできた太郎の家来を、裾を合わせて海へ蹴り込まれた。
○続いて寄る安芸太郎を、弓手(ゆんで)の脇に取つてはさみ、弟の次郎をば馬手(めて)の脇にかいばさみ、ひと締め締めて、「いざ、うれ、さらばおれら、死出の山の供せよ」とて、生年二十六にて、海へつつとぞ入りたまふ。
続いて太郎を左腕の脇に挟み、次郎を右腕の脇に挟んで二人を締め上げ、「おのれら、冥途の山へ供をしろ」と、壇ノ浦の海へ飛び込まれた。享年26.
…… 原文に忠実な訳ではありません ……
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平家物語の群像 平知盛①見るべきほどのことは見つ
新中納言平知盛 「入道相国最愛の息子」
『平家物語』において、知盛は同母兄の宗盛と対比的に描写されている。
ちょうど、父の清盛が、異母兄で嫡男の重盛と二項対立的に描かれているように。
愚鈍で優柔不断な宗盛に対して、冷静でかつ決断力に富んだ知盛。
都落ち以降の平家を、ひとりで支えているかのようだ。
ただ、人格者重盛にとって暴君清盛がそうであったように、愚昧な宗盛が一門の総帥として決定権を握っていた。
知盛がいかに正しい意見や判断を提起しても、宗盛は弟の意見と判断を斥け、いつも平家が滅亡する方向に動いた。
取り返しのつかない、愚兄賢弟である。
『平家』によると、一門が20年ほどで滅亡した主因は、清盛の神仏をも怖れぬ振る舞いと宗盛の相次ぐ判断ミスにあった。
物語としての文学的効果を狙ってのことだろうが、清盛さんと宗盛さんには迷惑な話だろう。
泉下で苦笑しているか、怒っているか。
あの世に逝ったら、さっそく尋ねてみたいものだ。
後世の私たちは、どうしても『平家』が描いている人物像に引きずられて類型的にイメージしがちである。
清盛は横暴で、宗盛は暗愚だったと。
対して、重盛と知盛は、ずいぶん得している。
もともとが琵琶を弾じながらの語り物だから、おおぜいの聴衆に分かりやすいよう単純に構成したという面もあろう。
善と悪、賢と愚。
実際の知盛は有能ではあったが病弱で、先日(4/16)、京都の祇園で車を暴走させて死傷者を出した40男と同じ、てんかん持ちだった可能性が高いそうだ。
不幸を背負っていたからかどうか、知盛は「入道相国最愛の息子」だったというのも事実らしい。
もしそうであれば、清盛公、慈愛に満ちた父親である。
★「見るべきほど~自害せん」という知盛の辞世の言葉は、いとこである教経の入水を目撃したあとに発せられた。
…… ……
○新中納言、「見るべきほどのことは見つ。今は自害せん」とて、乳母子の伊賀平内左衛門家長を召して、「いかに、約束は違ふまじきか」とのたまへば、「子細にや及び候ふ」と中納言に鎧二領着せ奉り、わが身も鎧二領着て、手を取り組んで海へぞ入りにける。
「この世の何もかも見届けた。死のう」知盛は乳母子の家長を呼んで、「どうだ、約束は違えまいな」とおっしゃると、家長は「無論です」。そして知盛に鎧を二領お着せし、自分も二領の鎧を着て、手を取り合って海に没した。
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平家物語の群像 平知盛②これを見て、侍ども二十余人
『安徳天皇縁起絵図』 赤間神宮所蔵
源平の最終決戦である壇ノ浦の戦いで平家の敗北が決定的になると、二位の尼や安徳天皇をはじめ一門の者が次々と入水した。
ところが、棟梁である宗盛は船の中を逃げ回っていた。
その余りのみっともなさに、家来たちは宗盛を捕まえて海に突き落とす。
しかし、皮肉なことに宗盛は泳ぎの名手。
海を泳ぎ回っているところを、源氏の兵に生け捕られた。
『平家物語』は、宗盛は肥満だったため浮きやすかったともいう。
このあとも、宗盛の子孫の方々には耐えられないような人物描写が続く。
一方、教経は源氏軍を相手に獅子奮迅の活躍をした後、義経を取り逃がすと潔く海に飛び込んだ。
こうした一切を、冷静に見届けていたのが知盛である。
平家一門の興亡が走馬灯の如く脳裏をよぎって、今、自分の死とともに一門の運命も終わろうとしている。
そうした感慨と諦観が、辞世の言葉に結晶したのではないだろうか。
『見るべきほどのことは見つ。今は自害船せん』
…… ……
○これを見て、侍ども二十余人、後れ奉らじと、手に手を取り組んで、一所に沈みけり。
侍たち20人余も、後れてはならじと手に手を取って同じ所に飛び込んだ。
○その中に、越中次郎兵衛・上総五郎兵衛・悪七兵衛・飛騨四郎兵衛は、何としてか逃れたりけん、そこをもまた落ちにけり。
越中兵衛と上総兵衛と悪七兵衛、そして飛騨四郎兵衛らはどのようにして逃れたのか、また落ち延びていった。
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平家物語の群像 平知盛③海上には赤旗・赤印投げ捨て
知盛山久唱寺 伊勢市矢持町
壇ノ浦で、平家は源氏軍に壊滅的な敗北を喫した。
知盛は、一門の終わりを見届けてから、乳母子の伊賀家長とともに、2度と浮かび上がらないように重い鎧を2領着て、壇ノ浦の海に身を投じた。
多くの家臣が自ら、知盛が沈んだ同じ場所に没していった。
『平家物語』は、そのように記している。
兄の宗盛は家臣らに軽蔑され船から海に落とされたが、知盛は人望があったようだ。
一方、伊勢の矢持町に伝わる伝説によると、戦いに敗れた知盛と二位の尼、安徳天皇らは平保道に護られて播磨の中津に上陸した。
そして、山づたいに鳥取県東柏郡中津へ向かった。
中津で、知盛主従8人は一行と別れて伊勢の船江へ落ちる。
それから、伊勢の前山にしばらく隠れ住んだ。
前山は外宮の神領で、知盛が身を隠すに絶好の土地。
当時、前山には世義寺(現在は伊勢市勢田町に移転)があり、跡地から安徳天皇誕生に関係があるという重文指定の陶経筒が出土している。
知盛らは、伊勢の矢持で平家再興を企て、源頼朝と対立した義経と手を結んだともいわれる。
だが、頼朝打倒はならなかった。
北条時政による探索をのがれ、鷲嶺(しゅうれい)の峰をこえて菖蒲の里に移り住んだ。
知盛の死後、菖蒲の墓地に御堂を建てて菩提を弔ったのが、「知盛山久昌寺」である。
久昌寺には「当地草創久昌寺殿従二位新中納言平庵知盛大禅定門」と書かれた位牌が祭られている。
久昌寺は壇ノ浦の戦いの5年後、建久元(1190)年の建立。
本尊の阿弥陀如来には承久3(1221)年8月20日付の胎内銘があり、「西海に沈んだ平家を弔ってこの仏を造らせた」という文が添えられているそうだ。
昭和27年本堂改築の際、知盛の墓を発掘したところ、写経石数千個と短刀一振りと人骨2体がみつかった。
ところが、その人骨はなぜか女性のものであった。
……
○海上には赤旗・赤印投げ捨て、かなぐり捨てたりければ、竜田川の紅葉葉を嵐の吹き散らしたるがごとし。
海上は平家の赤旗や赤印を投げ捨てたりかなぐり捨てたりしていたので、まるで竜田川の紅葉の葉を風が吹き散らしたようだ。
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平家物語の群像 平知盛④主もなき空しき船は
平知盛の墓 福岡県久留米市田主丸町
巨砲などの果樹栽培が盛んな福岡県の田主丸町に、平知盛ゆかりの平神社がある。
その一角に、平知盛の墓があり、近くに2基の石塔が建っている。
源平の国盗り合戦に決着がついて、源頼朝が鎌倉に幕府を開いたころ、筑後地方の吉木(久留米市草野)に向かう数十名の武装集団があった。
知盛とその一党だが、女房や子供らの姿も見える。
一行が筑後川を渡って中尾の里に着いたころ、草野の竹井城に遣わしていた家臣が駆け込んできた。
「これより南に向かうのは危険です」
竹井城主の草野永平は、平家の加護のもとでこの地方を治めてきた一族である。
頼りにしていた豪族に裏切られたことを知った知盛と家臣たちの顔が青ざめた。
「竹井城家老の合原外記が、攻めて参りましょう」
ほどなく、数百騎はあろう軍勢が砂埃を巻き上げながら迫ってきた。
「ここは御大将の首さえ差し出せばすむこと。私がその役目を務めましょう」
乳母子の伊賀家長が、知盛の身代わりに立つという。
「それはならぬ。こうなったら全員玉砕だ」
知盛は家長の申し出を一蹴しようとした。
「壇ノ浦で御大将の身代わりを立てて、落ち延びたは何のためでしょう。平家再興を念じてのことではありませんか。御大将は平家再興を果たされる唯一のお方」
…… ……
○汀(みぎは)に寄する白波も、薄紅にぞなりにける。主もなきむなしき船は、潮に引かれ、風に従つて、いづくをさすともなく揺られ行くこそ悲しけれ。
波打ちぎわに寄せる白波も、薄紅色になった。乗る者のいない船は潮に引かれ風に任せて、どこに向かうともなく揺られていくのが物悲しかった。
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平家物語の群像 平知盛⑤知盛卿は生田森の大将軍にて
伝平知盛の墓 甲宗八幡宮 北九州市門司区
家長は知盛の鎧と兜を脱がせて自ら大将の姿形を整えると、迫ってきた合原外記の馬前に立った。
「私が知盛だ。平家の恩顧を忘れ、源氏の軍門に降った裏切り者を成敗してくれよう」
「たわけめ。お前は知盛ではない。者ども、知盛を探せ」
たちまち家長の首は刎ねられ、知盛も捕まった。
知盛の最期を憐れんだ土地の者が、平知盛の墓を築いて供養した。2基の石塔が建てられたのは、後のことである。
一方、家長の妻子と幾組かの家族は今山(現;八女市今山)に落ち延びた。
服部と姓を変えた彼らは、今山に定住して子孫を繁栄させる。服部さんは800年経過した今も、中尾の平知盛の墓にお参りされているそうだ。
↓…… 一の谷の戦い ……↓
○新中納言知盛卿は生田森の大将軍にておはしけるがその勢皆落ち失せ討たれにしかば御子武蔵守知章侍に監物太郎頼方主従三騎汀の方細道に駆けて落ち給ふ。
知盛は生田森の大将軍だったが味方が皆逃げたり討たれたりしたので、息子の知章(ともあきら)と家来の頼方の主従三騎で、浜辺に向かって細い道を駆けて落ち延びられた。
○ここに児玉党と思しくて団扇の旗差したる者共十騎ばかり鞭鐙を逢はせて押し懸け奉る。監物太郎は究竟の弓の上手なりければ取つて返し真っ先に進んだる旗差が首の骨をひやうつはと射て馬より倒に射落す。
そこに児玉党らしき団扇の旗を差した者らが十騎ほど、鞭を振るい鐙(あぶみ)を蹴って押しかけてきた。頼方は弓の名手だったので、引き返して先頭を駆けてきた旗差の首の骨をひゅっと射て、馬から逆様に落とした。
○その中の大将と思しき者新中納言に組み奉らんと馳せ並ぶる処に御子武蔵守知章父を討たせじと中に隔たり押し並べむずと組んでどうと落ち取りて押さへて首を馘き立ち上がらんとし給ふ処に敵が童落ち合はせて武蔵守の首を取る
大将らしい者が知盛と組もうと馬を並べているところに、知章が父を討たせまいと割って入り、馬を押し並べてむんずと組んでどうと落ち、取り押さえて首を刎ねて立ち上がろうとすると、敵の家来が来て、知章の首を取った。
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平家物語の群像 平知盛⑥大臣殿の御舟へぞ参られける
平知章(ともあきら)孝死之図 源平盛衰記
平家落人伝説にかぎらず、落人伝説の多寡は、その「落人」が当時の人々の間でどれだけ人気があったかのバロメーターになるのではないだろうか。
『那須与一(実際は与一の話ではないが)』、『平教経』、『平知盛』とまだわずか3件の例だが、調べて書いているうちにそんな気がしてきた。
例えば、日本各地に知盛の落人伝説が10カ所あり教経に15カ所あるとすれば、教経のほうが人気が高かった。
こういうことである。
落人伝説とは、「落人」が戦いに敗れてどこかの土地に落ちたのではなく、ある土地の人々が生前から何らかの繋がりがあったり好意を寄せていたりしていた「落人」を、気持ちの上で自分の土地に招いた温情あふれる作り話なのだ。
つまり落人伝説の多い人物が「引く手あまた」であり、人気が高いということになる。
改めていうまでもなく、知盛伝説のあるすべての土地に「知盛」が逃げ延びたのではない。
人気云々はともかく、心を寄せる「落人」が戦場で無残に殺されたり入水したりしたことを認めたくなかったのだろう。
自分の土地で、生を全うして安らかに眠りについて欲しい。
落人伝説とはそういう民衆の側からの願いであり同情であり、「落人」に対する憧れでもあった。
では、そういう願いや同情や憧れと、実際の「落人伝説の土地」とはどういう関係にあるのだろうか。
…… ……
○監物太郎落ち重なり武蔵守討ち奉つたりける敵が童をも討つてけり。その後矢種のあるほど射尽くし打物抜いて戦ひけるが弓手の膝口を強かに射させ起きも上らで居ながら討死してけり。
頼方が馬から飛び下りて知章を討った童子を討ち取った。それから矢が尽きるまで射ると、太刀を抜いて戦ったが、左の膝を深く射られ起き上がれずに討ち死にした。
○この紛れに新中納言知盛卿は其処をつつと逃げ延びて究竟の息長き名馬には乗給ひぬ。海の面二十余町泳がせて大臣殿の御舟へぞ参られける。舟には人多く取り乗つて馬立つべきやうもなかりければ馬をば渚へ追い返さる。
その間に知盛は逃げ延びて、体力のある名馬に乗って海を20余町ほど泳がせ、宗盛の舟に乗った。舟には大勢乗っていて、馬が立つ隙間もなかったので馬は渚へ追い返された。
○阿波民部重能片手矢番ひて御馬既に敵の物となり候ひなんず射殺し候はんとて出でければ新中納言
只今我が命助けたらんずるものをあるべうもなしと宣へば力及ばで射ざりけり。
重能が片手で矢をつがえて「御馬は敵のものとなりました。射殺します」というと、知盛が「たった今、私を助けてくれた馬を殺すなどとんでもない」と言ったので、射るのをやめた。
…… 原文に忠実な訳ではありません ……
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平家物語の群像 平知盛⑦馬の命も長く主の命をも助けける
知盛幻生 前田青邨画
では、そういうファン心理とでも呼べそうな願いや同情や憧れと、平成の今も現実に存在する「落人伝説の土地」とはどういう関係にあるのだろうか。
専門知識のある方がもしこの拙文を読んで下さっていたら是非ご教示をお願いしたいところだが、取り敢えず素人の特権で素朴かつ大胆に考えてみたい。
「当事者」の方には、失礼にあたるかも知れない。
四国で指折りの観光地になっている徳島県の秘境祖谷の『教経伝説』は有名だ。
この伝説を例にとろう。
繰り返しになるが、祖谷地方の伝説によると教経は壇ノ浦で入水せず、安徳天皇と草薙の剣を伴って祖谷に落ち延びた。
名を幼名の国盛に改め、平家再興を図ったものの安徳が9歳で崩じ平家再興を断念、20年後に没したという。
国盛の末裔は阿佐家を称し、平家の赤旗を今に伝えている。
…… ……
○この馬主の別れを惜しみつつ暫しは船をも離れやらず沖の方へぞ泳ぎけるが次第に遠くなりければ空しき渚に泳ぎ帰り足立つほどにもなりしかばなほ船の方を顧みて二三度までこそ嘶きけれ。
馬は知盛との別れを惜しんで、しばらく船から離れようとせず沖の方へ泳いでいた。浜辺から遠くなると戻っていったが、脚が立つ辺りで、船の方を振り向いて2、3度いなないた。
○その後陸に上がつて休み居たりけるを河越小太郎重房取つて院へ参らせたり。
それから陸に上がって休んでいたところを、重房が捕まえて後白河法皇に献上した。
○元もこの馬院の御秘蔵にて一の御厩に立てられたりしを一年宗盛公内大臣に成りて悦び申しのありし時下し賜はられたりしを弟中納言に預けられたりしかばあまりに秘蔵してこの馬の祈りの為にとて毎月朔日毎に泰山府君をぞ祭られける。
馬は以前、後白河が大切にしていた馬で、一の御厩で飼われていたのを、宗盛が内大臣に就いたとき、祝いとして賜った馬であった。宗盛が知盛に預けると、知盛は大切にする余り馬の諸祈願のために毎月1日に泰山府君に祈った。
○その故にや馬の命も長く主の命をも助けけるこそめでたけれ。この馬元は信濃国井上立ちにてありければ井上黒とぞ召されしか。今度は河越が取つて院へ参らせたりければ河越黒とぞ召されける。
それゆえか馬の命も長く、知盛の命まで助けるとは素晴らしい。馬は信濃国の井上産だから井上黒と呼ばれていたが、河越が院へ献上したので河越黒と呼ばれることになった。
…… 原文に忠実な訳ではありません ……
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平家物語の群像 平知盛⑧子はあつて父を討たせじと敵に
新中納言知盛
平教経(のりつね)の祖谷(いや)地方における「落人伝説」は、次のような経過を辿ったのではないだろうか。
教経が壇ノ浦で亡くなったとの訃報を伝え聞いた「阿佐家」の御先祖様たちは、悲しみの中で、教経にゆかりのある「平家の赤旗」などの「物」を探し回った。
生前の教経と「阿佐家」の間に、何らかの深い心の交流があったのだろう。
幸い瀬戸内海沿岸は平家の勢力範囲だった期間が長く、ゆかりの「物」を集めやすかったと思う。
一方、「草薙の剣」など安徳天皇とともに平家再興のためには必要だが、どう頑張っても手にはいらない「物」は門外不出の秘宝として、立ち入り禁止の部屋に「ある」ことにした。
また、教経ら「落人」が祖谷への道を通ったように見せかけるため、安徳が装束を着替えた「装束石」や、谷を渡る時に安徳を手渡しした「皇上の手橋」などの「物証」を設えた。
これらの行為は全て、「祖谷の地で、教経公に生きていて欲しい」という「阿佐家」の人々の切ないまでの純粋な心根から出たものだ。
同じ「作り話」でも、記紀神話と違って、ある勢力が権力を確立するためにでっち上げた野暮な話とは性格を異にする。
「阿佐家」の子孫は時の流れとともにいつしか「伝説」を「史実」とみなすようになり、祖谷の人々は郷土の誇りと思うようになったのではないだろうか。
……
○その後新中納言知盛大臣殿の御前におはして涙を流いて申されけるは、武蔵守にも後れ候ぬ、監物太郎をも討たせ候ぬ。今は心細うこそ罷り成つて候へ。されば子はあつて父を討たせじと敵に組むを見ながらいかなる父なれば子の討たるるを助けずして遁れ参りて候ふやらん。
知盛は宗盛の前で涙を流しながら、「知章に先立たれました。頼方も討たれました。心細い限りです。そもそも子が父を守ろうと敵と組み合っているのを見て、どんな父親がわが子を見捨てて逃げるでしょうか」
○あはれ人の上ならばいかばかりもどかしう候ふべきに我が身の上になり候へばよう命は惜しいものにて候ひけりと今こそ思ひ知られて候へ。
他人事なら散々非難するだろうに、わが事となると命が惜しくなるものだということを思い知らされました。
○人々の思し召さん御心の内共こそ恥づかしう候へとて袖を顔に押し当ててさめざめと泣きければ大臣殿「まことに武蔵守の父の命に代はられけるこそ有難けれ」
人々がどう思うかそれを思うと恥ずかしくなりますと袖を顔に押し当ててさめざめと泣くと、宗盛は「知章が父を守って討たれたのは立派だった」
○手も利き心も剛にしてよき大将軍にておはしつる人をあの清宗と同年にて今年は十六なとて御子右衛門督のおはしける方を見給ひて涙ぐみ給へばその座に幾らも並居給へる人々心あるも心なきも皆鎧の袖をぞ濡らされける
「武芸にすぐれた剛気な立派な大将軍であった。清宗と同じ16歳だな」と子息の清宗のいる方を見て涙ぐむと、並居ぶ人々は心ある者もない者も鎧の袖を濡らした。
…… 原文に忠実な訳ではありません ……
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平家物語の群像 平重衡①重衡卿は生田森の副将軍にて
平重衡 菊池容斎画 江戸時代
私はまだ、重衡卿(清盛の息子)と維盛卿(これもり:清盛の嫡孫 重盛の嫡男)にお目にかかったことはないが、ふたりが平家の公達の中で抜きんでて華があったのだろう。
重衡は「ぼたんの花」に例えられ、維盛は「光源氏の再来」の通り名をほしいままにした。
『建礼門院右京大夫集』によると、重衡は何かと心遣いが出来るうえに性格が明るく愛嬌もあって、宮中の女房たちにとても人気があったそうだ。
のちに運悪く仏敵の汚名を着せられるが、武将としても一流の「常勝将軍」である。
花も実もある大将軍だったようだ。
一方、維盛は嫡流ながら、父重盛亡き後は孤独の影が差し始め、武将としては「連戦連敗」である。
イケメン繋がりでいうともう一人、平家の公達ではないが、渡辺競(きおう)という「王城一の美男」(源平盛衰記)がいた。
宮尾登美子の『宮尾本 平家物語』によると、「競が都大路を歩くと、あまりの美しさに女たちは皆めまいがして倒れた」。
何とも羨ましい限りだが、渡辺競は以仁王の乱の首謀者源頼政の家来である。
以仁王と頼政が敗死した宇治平等院の戦いのさい、華のトリオが戦場で遭遇して妍を競っていたら見物だったろう。
ただ、重衡と維盛は宇治へ出陣しているが、競は赴いていないようだ。
ところで、当時の三大美女はどういう顔ぶれなんだろうか。
…… ……
○本三位中将重衡卿は生田森の副将軍にておはしけるがその日の装束には褐に白う黄なる糸を以て岩に群千鳥繍うる直垂に紫裾濃の鎧着て童子鹿毛といふ聞ゆる名馬に乗り給へり
重衡は生田森の副将軍で、その日の装束は深藍に鮮やかな黄色の糸で岩と群千鳥を刺繍した直垂に紫裾濃の鎧を着、童子鹿毛という評判の名馬に乗っていた。
○乳母子後藤兵衛盛長は滋目結の直垂に緋威の鎧着て三位中将のさしも秘蔵せられたる夜目無月毛にぞ乗せられたる
乳母子の盛長は、滋目結の直垂に緋威の鎧を着、重衡が大切にしていた夜目無月毛に乗っていた。
○主従二騎助け舟に乗らんとて細道にかかつて落ち給ふ処に庄四郎高家梶原源太景季よい敵と目をかけ鞭鐙を合はせて追ひ駆け奉る。
主従二騎が助け舟に乗ろうと細い道をたどって落ちているところへ、庄四郎高家と梶原景季が、いい敵を見つけたと、鞭を振るい鐙を蹴って追いかけてきた。
○渚には助け舟共幾らもありけれども後ろより敵は追つ駆けたり乗るべき隙もなかりければ湊川苅藻川をもうち渡り蓮池を馬手に見て駒林を弓手に成し板宿須磨をもうち過ぎて西を指してぞ落ち給ふ。
渚には助け舟が何艘もあったが、後ろから敵が追いかけてくるので、乗っている暇がないため、湊川、苅藻川をも越え、蓮池を右に見て駒林を左に見て、板宿、須磨も通り過ぎ、西を目指して落ち延びられた。
…… 原文に忠実な訳ではありません ……
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平家物語の群像 平重衡②盛長はわが馬召されなんとや
捕われの重衡 平家物語絵巻
平成の世では、乳母子(めのとご)という言葉はほとんど聞かれないが、古代から中世にかけての擬制的血縁関係の一つで、重要な社会システムであった。
実母に代わって貴人の子・養君(やしないぎみ)を養育する女性を乳母(めのと)といい、乳母の実子を乳母子という。
同じ母乳を飲んで育った養君と乳母子は、実の兄弟のような関係になり、主従関係としては強い相互信頼で結ばれることが多かった。
武家社会においては、乳母子は忠実な側近として養君と行動を共にしている。
乳兄弟は、「一所の契り」を結んでいるからだ。
一所の契りとは、同じ時に同じ場所で一緒に死のうと約束すること。
例えば、重衡の兄の知盛は壇ノ浦の戦いで敗北したとき、乳母子の伊賀平内左衛門家長と手に手を取って、「見るべきほどのことは見つ。今は自害せん」と達観したかのような心境で入水した。
………… (平知盛①見るべきほどのことは見つ 参照)
ところが、重衡の場合は違った。
「牡丹の花」にして「常勝将軍」が、一の谷で源義経の奇襲戦法に面食らって敗走しているとき、思いもしないことに、乳母子の後藤兵衛盛長に逃げられたのだ。
これを境として、華やかだった重衡の人生が暗転する。
…… ……
○三位中将は童子鹿毛といふ聞ゆる名馬に乗り給ひたりければ揉み伏せたる馬の容易う追つ付くべしとも見えざりければ梶原もしやと遠矢によつ引いてひやうと放つ。
重衡は童子鹿毛という評判の名馬に乗っているので、梶原は疲れ果てた馬では追いつけるとも思えず、弓を引き絞って遠矢をひゅっと放った。
○三位中将の馬の三頭を箆深に射させて弱る処に乳母子後藤兵衛盛長は我が馬召されなんとや思ひけん鞭を打つてぞ逃げたりける。
重衡の馬が尻骨あたりを深く射られて弱ったので、乳母子の盛長が自分の馬を取られてしまうかもしれないと思ってか、鞭を打って逃げてしまった。
○三位中将いかに盛長われをば捨てて何処に行くぞ年比日比さは契らざりしものをと宣へども空聞かずして鎧に付けたりける赤標どもかなぐり捨ててただ逃げにこそ逃げたりけれ。
重衡が、「盛長、おれを捨ててどこへ行く。そんな約束はしていないはずだ」と叫んだが、聞こえないふりをして鎧につけた(平家を示す)赤い印をかなぐり捨てて逃げてしまった。
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平家物語の群像 平重衡③腹を切らんとし給ふ所に
重衡捕らわれの地 兵庫県神戸市須磨区1丁目
重衡は土壇場で、乳母子の盛長に裏切られた。
『平家物語』に登場する乳母子は二つのタイプに分けられる。
わが身を捨てて養君(やしないぎみ 主君)に忠節を尽くした忠義の士と、臆病風に吹かれて養君を見捨てた不忠の臣と。
最期まで養君を守り抜こうとしたあるいは行動をともにした代表的な乳母子には、木曽義仲に対する今井兼平
…… (義仲⑬さてこそ粟津のいくさはなかりけれ 参照)、
平宗盛に対する飛騨三郎左衛門景経、
平知盛に対する伊賀平内左衛門家長
…… (平知盛①見るべきほどのことは見つ 参照)らがいた。
一方、ギリギリのところでわが身かわいさに養君を裏切った乳母子には、以仁王に対する六条佐大夫宗信、そして平重衡に対する後藤兵衛盛長らがいる。
宗信や盛長は世間の非難を浴びるが、乳母子ゆえに他の家臣よりも非難の度合いが強かった。
…… ……
○三位中将馬は弱る海へさつとうち入れられけれども其処しも遠浅にて沈むべきやうもなかりければ急ぎ馬より飛んで下り上帯切り高紐外し既に腹を切らんとし給ふ所に庄四郎高家鞭鐙を合はせて馳せ来たり急ぎ馬より飛んで下り、
重衡は馬が弱ったので、海へざっと乗り込んだが遠浅で沈まない。急いで馬から飛び下りて上帯を切り高紐を外して腹を切ろうとしているところへ、高家が鞭を振るい鐙を蹴って駆けつけ、急いで馬から飛び下りて、
○正なう候ふ何処までも御供仕り候はんものをとて我が乗つたりける馬に掻き乗せ奉り鞍の前輪に締め付け奉つて我が身は乗替に乗つてぞ帰りける。
「それはなりません。私がお供します」と自分の馬に重衡を乗せ鞍の前輪に縛りつけ、自分は乗り替え馬に乗った。
○乳母子の盛長は其処をばなつく逃げ延びて後には熊野法師に尾中法橋を頼うで居たりけるが法橋死んで後後家の尼公訴訟の為に京へ上るに供して上りたりければ三位中将の乳母子にて上下多くは見知れたり。
盛長は逃げのびると、尾中法橋を頼って熊野にいた。法橋の死後、後家の尼公が訴訟のため上洛するとき供をしたが重衡の乳母子だったので、京では顔を知られていた。
○あな憎や後藤兵衛盛長が三位中将のさしも不便にし給ひつるに一所でいかにも成らずして思ひも寄らぬ後家尼公の供して上りたるよとて皆爪弾をぞしける。
憎い奴だ。盛長は重衡公にあんなに可愛がってもらっていたのに、運命を共にするでもなく自分ひとり逃げてしまい、あんな後家尼の供をして都にやって来たとみんな軽蔑した。
○盛長もさすが恥づかしうや思ひけん扇を顔にかざしけるとぞ聞えし。
盛長はさすがに恥ずかしいのか、顔に扇を翳していたそうだ。
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平家物語の群像 平重衡④南都攻めの大将軍は頭中将
平重衡出陣の図
寿永3(1184)年2月の一の谷の戦いに先立つ、治承4(1181)年の12月28日、重衡を総大将とする総勢四万余騎の平家軍が、南都(奈良)征討に出陣した。
治承4年5月、以仁王が南都に逃げ込もうとしたことで分かる通り、南都の寺院勢力は平家に敵対していた。
九条兼実は12月19日、日記『玉葉』に、「衆徒の内に源氏に呼応する凶徒がいるが、上級僧侶の説得により留まっているそうだ」と記し、22日には、「近日中に官軍を南都に遣わし、悪徒を取締り坊舎を焼払うとの噂がある」と書いている。
南都が、鎌倉の頼朝と気脈を通じていたことが分かる。
『平家物語』では、清盛は南都の不穏な情勢を察知し、事態の沈静化に腹心の妹尾兼康を派遣するが、非武装の兼康一行を僧兵が襲撃し、多くの郎党が殺害された。
命からがら逃げ帰った兼康から報告を受けた清盛は激怒、南都追討を決断した。
古来、東大寺と興福寺は各地に広大な荘園をもちまた多数の僧兵を抱えており、近江の延暦寺や園城寺(三井寺)とともに、中央政権にとってままならない存在だった。
藤原摂関家を抑えて強力な院政を敷いた権力者白河法皇をもってして、「賀茂河の水 双六の賽 山法師 是ぞわが心に 叶わぬもの」と嘆かせる。
清盛が福原遷都を強行したのは、宗教勢力の圧迫から逃れるためとも言われる。
ちなみに、仏道修行の場であるはずの寺院から武力装置である僧兵が姿を消したのは、織田信長による宗教勢力の弾圧以来という。
…… ……
○入道相国且々南都の騒動を鎮めんとて瀬尾太郎兼康を大和国の検非所に補せらる。
清盛はひとまず興福寺の騒動を鎮めようと、兼康を大和国の検非違使所に任じた。
○相構へて衆徒は狼藉を致すとも汝等は致すべからず。物の具なせそ。弓箭な帯しそとて遣はされたりけるを南都の大衆かかる内議をば知らずして兼康が余勢六十余人搦め捕つて一々に皆首を斬りて猿沢の池の端にぞ懸け並べたりける。
「興福寺の衆徒(のちの僧兵)が狼藉を働いても、お前らは手を出すな。武具をつけず、弓も携帯するな」と言いふくめて遣わしたが、衆徒はそんなこととは知らず、兼康勢60余人を捕らえて首を刎ね、猿沢の池の端に並べた。
○入道相国大きに怒りてさらば南都をも攻めよやとて大将軍には頭中将重衡中宮亮通盛都合その勢四万余騎南都へ発向す。
清盛はおおいに怒ってそういうつもりなら興福寺も攻めよと、大将軍には平重衡、平通盛をはじめとして総勢四万余騎を奈良・興福寺へ向かわせた
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