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Channel: 吉備路残照△古代ロマン
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平家物語の群像 平重衡⑤平家四万余騎を二手に分かつて

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$吉備路残照△古代ロマン-般若寺 般若寺の回廊門 (国宝)

戦火によって、東大寺興福寺などは主要な堂塔伽藍を失い、壊滅的な打撃を蒙った。

しかも、折からの突風にあおられてあらぬ方向に飛ばされた平家方の火矢が、大仏殿に向かった。

そして事もあろうに、紅蓮の炎が大仏を包んだのである。

これによって、清盛重衡が世間から仏敵として激しく指弾されたばかりでなく、蝶よ花よと深窓で育てられてきた重衡の妻藤原輔子(ほし)、通称大納言典侍(だいなごんのすけ)に、こののち凄惨な後半生が待ち受けることになる。

南都攻めを決断した清盛は、熱病という名の焦熱地獄に苦しみながら悶え死んだ。

この清盛臨終の場面には、「尊い大仏様が苦しんだ苦しみ以上の苦しみをお前も苦しめ」という、平家物語作者の隠れた意図があるような気がしてならない。

          ……       ……

○南都にも老少嫌はず七千余人甲の緒を締め奈良坂般若寺二箇所の路を掘り切つて掻楯かき逆茂木引いて待ちかけたり。平家四万余騎を二手に分かつて奈良坂般若寺二箇所の城郭に押し寄せて鬨をどつと作りける。大衆は徒歩立ち打物なり

興福寺では老若を問わず7000余人が甲の緒を締め、奈良坂般若寺の2か所の道を堀でふさぎ、釘を打った楯を並べ、逆茂木(さかもぎ)を敷いて待ち構えた。平家は四万余騎を二手に分け、奈良坂と般若寺2か所の砦に押し寄せて、鬨の声を上げた。大衆は歩兵で、武器は太刀や刀である。

○官軍は馬にて駆け廻し駆け廻し攻めければ大衆数を尽くいて討たれにけり。卯の刻に矢合せして一日戦ひ暮らし夜に入りければ奈良坂般若寺二箇所の城郭共に敗れぬ。

平家軍は馬で駆け回りながら攻めたので、大衆は数知れず討たれた。卯の刻(午前6時)に双方から矢を放って開戦。1日中戦い続け、夜、奈良坂と般若寺の2つの砦が陥落した。

○落ち行く衆徒の中に坂四郎永覚といふ悪僧あり。これは力の強さ弓箭打物取つて七大寺十五大寺に勝れたり。萌黄威の腹巻の上に黒糸威の腹巻を重ねてぞ着たりける。

落ちていく衆徒の中に坂四郎永覚という荒法師がいた。力の強さ、弓矢・太刀の腕前は、七大寺、十五大寺の中でも屈指。萌黄威の腹巻の上に黒糸威の腹巻を重ねて着ていた。

    …… 原文に忠実な訳ではありません ……


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平家物語の群像 平重衡⑥般若寺の門の前にうち立つて

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$吉備路残照△古代ロマン-東大寺大仏殿 奈良坂から望む東大寺大仏殿

重衡は、『平家物語』では「牡丹の花」に喩えられ、『平家公達草紙』には、「かたちもいとなまめかしく、清らなりけり」(容貌がとても若々しく、気品があって美しかった)とある。

平家公達の中でも維盛(光源氏の再来)とともに美男子の代表格である重衡の女性関係は、やはり華やかだ。

恋愛模様はさておき、性格はどうだったのだろうか。

『建礼門院右京大夫集』(建礼門院右京大夫①愛する者の死 参照)によると、面白い話をして女房たちを笑わせたり、表情たっぷりに怖い話を披露して震え上がらせたり、とにかく場の雰囲気を盛り上げるのが得意な快活な好青年である。

しかも気が利いて、サービス精神が旺盛。

好感度が非常に高かったのではないだろうか。

『平家公達草紙』には、盗賊の真似をする有名なエピソードが記されている。

ある夜、高倉天皇が、「暇だなぁ、なにか面白いことないか」というので、重衡と藤原隆房(重衡の妹婿)が覆面をして女房たちの部屋にはいり、着物を1枚はぎとって戻ってきた。

「女房たち、とっても怖がってましたよ」と報告すると、高倉は、「おやおや、かわいそうなこと」と大笑いしたという。

仏敵・重衡は、かなりのいたずら好きだったようだ。

以上の逸話から察する人物像はまさに、愛される貴公子。

          ……       ……

○帽子甲に五枚甲の緒を締め茅の葉の如くに反つたる白柄の大長刀黒漆の大太刀左右の手に持つままに同宿十余人前後に立て手掻門より打つて出でたり。これぞ暫く支へたる。多くの官兵馬の脚薙がれて討たれにけり。

帽子兜に5枚兜の緒を締め、茅の葉のように反った白柄の大長刀や黒漆の大太刀を両手に持ち、同じ僧坊の10余人を前後に控えさせ、碾磑門から突撃した。永覚がしばらく防いでいた。多くの平家勢が馬の脚を薙がれて討たれた。

○されども官軍は大勢にて入れ替へ入れ替へ攻めければ永覚が防ぐ所の同宿皆討たれにけり。永覚一人猛けれども後ろ顕になりしかば南を指してぞ落ち行きける。

しかし平家軍は入れ替わり立ち替わり攻めてくるので、永覚と共に防いでいた同じ僧坊の者らは皆討たれてしまった。永覚は一人奮闘していたが、後ろには誰もいなくなってしまったので、南の方へ落ち延びた。

○夜軍になつて大将軍頭中将重衡般若寺の門の前にうち立つて暗さは暗し火を出だせと宣へば播磨国の住人福井庄下司次郎太夫友方といふ者楯を破り松明にして在家に火をぞ懸けたりける。

夜戦になって、重衡は般若寺の門の前に立ち、真っ暗だ火をつけろと指図すると、播磨国の友方という者が、盾を割って松明にし、民家に火をかけた。

    …… 原文に忠実な訳ではありません ……


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平家物語の群像 大納言典侍③今日を限りの 形見と思へば

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$吉備路残照△古代ロマン-平重衡卿之墓 平重衡卿之墓 十三重石塔は重衡の供養塔 安福寺 (重衡の菩提を弔うために建てられ、本尊の阿弥陀如来像は重衡の引導仏と伝わる) 京都府木津川市木津宮ノ裏


「一の谷で自害しようとしたが生け捕りにされ、京と鎌倉で恥をさらした。そして、奈良の衆徒に引き渡され、斬られる為にやって来た。元気な姿をもう一度見て、

見せもしたいと思っていた。もはやこの世に思い残すことはない。頭を剃って形見に髪の毛を渡したいが、このような有様なので、そうもできない」

重衡はそういうと、額の髪をかき分けて口にかかった毛を歯で噛み切った。

「これを形見として残しておこう」

大納言典侍は思いが込み上げたのか、うつ伏してしまった。

ややあって、涙声でいう。

二位の尼様や小宰相様のように、入水すべきだったのでしょうが、あなた様が亡くなられたとも聞いていなかったので、今一度、お会いしたいと思って生き長らえてきたのです。

それも、今日を限りとなりました」

それからふと気が付いたのか、「余りにみすぼらしいお姿です。お着替えなさって下さい」と、袷 (あわせ) の小袖と浄衣を、奥の部屋から出してきた。

重衡は着ていた服を、「これも形見に」と渡した。

大納言典侍は、「それも形見になりましょうが、筆跡こそ、後の世までの形見になります」と、硯(すずり)を持ってきた。

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重衡が、一首詠む。

○せきかねて 涙のかかるから衣 後の形見に 脱ぎぞ替えぬる

(とめかねた涙にぬれた衣を 形見として脱ぎかえていきます)

大納言典侍の返歌。

○ぬぎかふる 衣も今は何かせむ 今日を限りの 形見と思へば

(着替えられたお召し物も、今日を限りのお別れです。どうしたらいいのでしょう)

重衡は、「契りがあれば、来世でも必ず再会できる。日も暮れてしまった。奈良へはまだ遠い。護衛の武士を待たせるのも悪い」と立ち上がった。

大納言典侍は重衡の袂に泣きすがって、「ねぇ、もう少し、あと少し」と引き留めた。

「私だって別れたくはない。だが、もう定まった身。来世また会おう」

思いを断ち切って、出発した。


平家物語の群像 大納言典侍④中々なりける見参かな

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$吉備路残照△古代ロマン-寂光院 大納言典侍が晩年を過ごした寂光院 洛北大原

大納言典侍は、重衡一行のあとを追いかけようとしたが、出来ようはずもなく、うつ伏して泣きに泣いた。

その振り絞るように泣き叫ぶ声がいつまでも耳に届いて、重衡は馬を早めることができない。

「中々なりける見参かなと今は悔しうぞ思はれける」

やはり会うべきではなかったと、今となっては後悔もした。

殺されるために出かける夫と、ひとり残されて泣きじゃくる妻。

これ以上の、残酷な別れはあるまい。


翌日、重衡は念仏を唱えながら木津川の川べりで斬首され、首は般若寺の大鳥居の前に釘付けにされた。

大納言典侍は、人をやって首のない夫の亡骸を日野へ持ち帰らせた。

「昨日まではさしもゆゆしうおはせしかどもかやうに暑き比なればいつしかあらぬ様に成り給ひぬ」

昨日まではあれほど立派な男ぶりだった夫の身体が、暑い時期でもあり、早くも腐りかけている。

深窓育ちの大納言典侍が、首のないしかも腐乱の始まりかけている夫の屍体といかに向き合い、どのように洗浄し、処理していったのか。

想像するだに、胸が痛くなる。

夫の屍体を身ぎれいにすると、日野の法界寺で心を尽くして供養した。


数日後、重衡に西方浄土への道を説いた法然の弟子で、東大寺の大仏再建に力を尽くした俊乗房重源の計らいで、重衡の首が戻ってきた。


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重衡の首と胴体を火葬にして、骨を高野山へ送り、墓を日野に築いた。

「北の方やがて様を変へ濃墨染に窶れ果ててかの後世菩提を弔ひ給ふぞ哀れなる」

大納言典侍はすぐに出家して濃墨染の衣に身を包むが、すっかりやつれ果て、重衡の菩提を弔ったのが哀れである。


その後、義理の妹で安徳天皇の生母建礼門院徳子に仕え、洛北大原の寂光院で夫の菩提を弔いながら余生を過ごす。

なお、後白河法皇が大原に彼女たちを訪ねたという有名なエピソード【大原行幸】は、名場面ではあるが、『平家物語』の創作という説が有力である。



平家物語の群像 千手の前①珍しい生い立ち

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$吉備路残照△古代ロマン-千手の前  千手の前 (千寿の前)


千手の前は、駿河国手越 (静岡市駿河区手越) の庶民階級出身である。

母親が千手寺 (静岡県磐田市千手堂) の千手観音にお参りして授かったことから、千手と名づけられたという。

そんな彼女の生い立ちは、『平家物語』に登場する女性たちの中ではきわめて珍しい。

というのは、固有名詞をもって『平家』に登場する女性の大部分が、都育ちでしかも貴族階級に属しているからだ。

もちろん都育ちだが貴族ではない者や、都育ちではないが準貴族のような者もいる。

例えば、白拍子の祇王は、庶民階級のヒロインだが都の近郊で生まれ育った。

同じ白拍子の仏御前は、北陸の加賀国出身だが、父親は都から派遣されていた、花山法皇ゆかりの那谷寺五重塔の塔守である。
         祇王①清盛と祇王 参照     

一方、は木曾の山国育ちだが、木曾随一の大豪族の娘である。
      巴②色白く髪長く、容顔まことに優れたり

すなわち、生粋のイナカの庶民階級出身である千手の前は、きわめて稀な存在なのだ。

しかし、『平家物語』の作者は、そんな出自の千手の前を、がさつだったり無教養だったりするような女として描いているわけではない。

むしろ逆である。

千手の前は優美で教養にあふれ機知に富み、人の気持ちを察する能力にも長けていた。

しかも類まれな美女。

都の優れた女性たちに一歩も引けを取らないヒロインなのだ。

そんな千手の前が、生まれて初めて恋を知った。

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寿永3(1184)年3月27日、一ノ谷の戦いで義経軍によって生け捕りにされた平重衡が鎌倉に到着する。

源頼朝は、南都を焼き討ちした仏敵重衡を問い詰めるが、重衡の大器量に感服して、戦争犯罪人ではあるが丁重にもてなした。

   平家物語の群像 平重衡⑰重衡、頼朝と対面 参照

そして、南都の衆徒には何か言い分があるだろうと、伊豆の住人狩野宗茂に預けた。

宗茂は気持ちの優しい男で、重衡のために色々と心を砕く。



平家物語の群像 千手の前②ただ思ふ事とては出家ぞしたき

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$吉備路残照△古代ロマン-千手の前1 千手の前 菊池容斎画  江戸時代 『前賢故実』より


狩野宗茂 (かのうむねしげ) は家人に指図して湯殿に湯を引かせると、重衡に旅の汚れを落とすように勧めた。

重衡が、汗を流して身ぎれいにしてから殺されるのかと思っていると、20歳ほどの女房が入浴の際に身に着ける湯巻き姿で、湯殿の戸を開けて入ってきた。

色白で、清潔な感じの美しい女である。

それから14、5歳ほどの童女 (ワラワメ; 少女) が、櫛を入れた盥をもって入ってきた。

女房は言葉少なに重衡の髪を洗ったりして入浴の世話をすると、帰りがけに、重衡へ小さく声を掛けた。

「男の方では無愛想と思われたのでしょうか。『女のほうか良かろう』との頼朝様の言いつけで参りました。

また、重衡様に何かご希望があれば、どんなことでもお聞きして、伝えるようにとの仰せでした」

血も涙もないイメージの強い頼朝さん、重衡さんに対して随分あたたかな心配りである。

「(原文) 今はかかる身となりて何事をか思ふべき。ただ思ふ事とては出家ぞしたき」

「このような身となって、何を思うだろうか。ただ、出家したい」

女房が承わって、頼朝に伝えた。

「(原文) それ思ひも寄らず。私の敵ならばこそ朝敵として預り奉りたれば叶ふまじ」

「出家とは、思いもよらなかった。私個人の敵ならともかく、朝敵としてお預かりしているゆえ、出家はできない」

女房が戻ってきて、重衡に頼朝の言葉を伝えた。


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重衡が、狩野宗茂に尋ねた。

「(原文) さても只今の女房は優なりつる者かな。名をば何と云ふやらん」

「それにしても、さっきの女房はやさしくて優雅な娘だったが、名を何という」

「あれは、手越 (静岡市) の長者の娘で、見目麗しいうえに気立てがいいので、ここ2、3年、頼朝殿にお仕えしている者です。名を、千手の前といいます」

 

平家物語の群像 千手の前③吾妻にもかかる優なる人の

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$吉備路残照△古代ロマン 琵琶を弾く前三位中将平重衡

その夜、小雨のそぼ降るもの寂しい折に女房が琵琶と琴を、人に持たせてやって来た。

宗茂も家来を10人ほど引き連れてやってきて、重衡の御前に座ると、さっそく酒を勧めた。

女房が、酌をする。

しかし、重衡は少し口をつけただけで、浮かない様子。

興に乗ってこない重衡に、宗茂が申し訳なさそうにいう。

「お聞き及びと存じますが私は伊豆の者です。鎌倉では重衡様が満足されるような馳走を用意できませんが、心を込めて尽くします。頼朝殿もねんごろにお慰めせよとの仰せです」

女房に、「何か謡って、お酒をお勧めしなさい」と促した。

女房は、『和漢朗詠集』から菅原道真の朗詠を口ずさんだ。

こんなに心を尽くしてもてなしているのに、どうしてご気分を晴らして下さらないのですか、との意を込めて繰り返し謡った。

「(原文) 羅綺の重衣たる情無い事を機婦に妬む」

「薄い衣を重いといって、うまく舞えないことを機織り女のせいにする」

「北野天神 (菅原道真) は、この朗詠をした者を日に3度まで翔けてきて守ろうと誓われたが、重衡は今生では既に見捨てられた身。歌を添えても、どうにもならない。

しかし、罪が少しでも軽くなるのなら、謡ってみるか」

千手の前はすぐに、重衡の気持ちを汲んだ。

『和漢朗詠集』から、「十悪の罪人といえども、なお極楽往生する」という朗詠を歌い、「極楽を願う人は皆、弥陀の称号(南無阿弥陀仏)を唱えるべし」という今様を4、5回繰り返す。

気持ちが軽くなったのか、重衡は盃を傾けて、差し出した。

千手の前が盃を受け取り、宗茂に渡して、酌をする。

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宗茂が飲む時、千手の前は、琴を弾いた。

重衡は、たわむれを口にするほど機嫌を取り直している。

「普通にはこの楽曲を五聖楽 (五常楽) というが、私は後世楽と思って聴こう。よし、往生の
でも弾くか  (楽曲の序・破・急のにかけた)」

重衡は琵琶を手にして調弦すると、唐楽 『皇じょう』 の終曲にあたるを弾いた。

そうこうしているうちに、ようやく夜が更けていく。

重衡はいたく感心して、千手の前に所望した。

「(原文) あな思はずや吾妻にもかかる優なる人のありけるよ。それ何事にても今一声」

「あぁ、思ってもみなかった。東国にもこのように風雅を解する人がいるとは。さぁ、何でもいいから、もう一声聴かせよ」


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平家物語の群像 千手の前④物思ひの種とや成りにけん

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$吉備路残照△古代ロマン-千手の前墓   傾城塚 (けいせいづか:千手の前の墓)  静岡県磐田市


千手の前は、「一樹の陰に宿り、同じ流れの水を飲むのも、これ皆、前世からの契りがあってのこと」という白拍子の舞い歌を、しみじみと謡った。

それから重衡が、『和漢朗詠集』の *「燈(ともしび)暗うしては、数行虞氏が涙」という朗詠を謡った。

次のような意味だ。

昔、中国で、漢の高祖(劉邦:りゅうほう)と楚の項羽:こううが、帝位を争って戦うこと実に72回。

項羽が、劉邦に勝ち続けた。

しかし、ついに項羽が合戦に負けて、楚が滅ぶ時がくる。

一日に千里を駈ける(すい)という名の駿馬に乗って、后の虞氏とともに逃げようとしたが、なぜか、騅が脚を揃えて動こうとしない。

項羽は、「敵が襲ってくるのは何でもない。ただ、后と別れねばならないことが辛い」と嘆き悲しんだ。

虞氏は、燈が暗くなってくると、心細くなって涙を流した。
  *「燈(ともしび)暗うしては、数行虞氏が涙」

夜が更けてくると、敵の軍兵が四方に閧の声を上げた。


この時の項羽の気持ちを、橘広相 (たちばなのひろみ 平安時代前期の公卿&学者) が漢詩に詠んだのを、重衡が謡ったのである。

何とも物悲しく、また優雅に響いたそうだ。

天下の権を握ったかのように見えた項羽が、あっけなく没落してゆく。

重衡は、そうした項羽の運命に、平家一門と自身の運命を重ね合わせたのだろう。


夜も深くなったので、宗茂千手の前は退出した。

翌朝、源頼朝が持仏堂で法華経を読んでいるところへ、千手の前が戻ってきた。

頼朝は笑みを浮かべて、「夕べは、重衡殿をとても上手にもてなしてくれた」と千手の前をほめたという。

何か物を書いていた中原親義が、「何事ですか」と尋ねた。

感慨深そうにしていた頼朝が、口を開いた。

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「(原文) 平家の人々は甲冑弓箭の外はまた他事あるまじとこそ日比は思ひしにこの三位中将の琵琶の撥音朗詠のやう終夜立ち聞きつるに優に優しき人にておはしけり」

「平家の人々は、合戦に明け暮れて他のことは何もしていないだろうと思っていたが、重衡殿の琵琶をはじく音、朗詠を口ずさむ声、
ずっと立ち聞きしていたが、とても優雅で上品な方だった」

親義が、続ける。

「私もお供したかったのですが、気分が悪くて遠慮しました。次からは、私も立ち聞きしましょう。
平家は代々、歌人・才人の家柄で、先年、平家の方々を花に例えたところ、重衡殿は牡丹でした」

頼朝は、重衡の琵琶の音色と歌声を、後々まで忘れなかったそうだ。


千手の前は、重衡が物思いの種になったのだろうか。

重衡が、南都で引き回されて斬られたと聞くと、ひっそりと出家して墨染めの衣に袖を通した。

そして、信濃の国(長野県)の善光寺で行を修め、終生、重衡の後世・菩提を弔ったという。

若い身空で、なんとも哀れである。



平家物語の群像  源頼政①平家は「盛」、源氏は「義」と「頼」

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$吉備路残照△古代ロマン-源頼政 源三位頼政 (げんざんみよりまさ 馬場頼政とも)


平家一門の名前の後ろには 「盛」 の付くことが多いことは、広く知られている。

忠盛・清盛・重盛・知盛・敦盛と、これまで拙ブログで採りあげてきたお歴々の大半にも、「盛」 がついている。

忠度と重衡と教経にはなぜ、「盛」 がついていないのか、逆に疑問に思うほどだ。

考えてみると、清盛の兄弟のなかでは忠度だけが、息子では重衡だけが、「盛」 なしである。

教経は、清盛の甥にあたる。

そして、偶然なのだろうか、3人とも男の兄弟では末っ子だ。

嫡流 (長男) は、正盛 (清盛の祖父) 以下、維盛  (これもり 清盛の孫) まで、「盛」 派である。

それでは、源氏はどうか。

平家は 「盛」 派が他派を圧倒しているが、源氏は 「義」 と 「頼」 の二大派閥が強いようだ。


「義」 と 「頼」、ともに読みは 「よ」 で始まることから、ひょんなことを発見した。

今日から、『平家物語の群像』 を源頼政 (なもとのりまさ) にしようと、昨日 「みよ」 で源頼政をパソコンに単語登録しておいた。

そして、さっき、「みよ」 と打ち込んで変換すると、「源頼朝」 および 「源義経」 というスーパースターとともに、「源頼政」 という渋い名脇役が表示されたのである。

そこで、われながらワケの分からないことに思いあたった。

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源氏の面々の名前は、「義」 派と 「頼」 派の二大勢力がせめぎあっているというより、まとめて 「よ 与」 党なんだと。

だから、源氏が、最終的に政権をとったのだ、と。

さて、源頼政である。

頼朝や義経らが頼信を祖とする河内源氏であるのに対して、頼政は大江山での酒呑童子討伐や土蜘蛛退治の説話で知られる頼光 (よりみつ らいこう) を祖とする摂津源氏の流れである。

ともに清和源氏であることに、変わりはない。

頼政は政治的な嗅覚が鋭かったのか、保元の乱と平治の乱ではともに勝者の側に属し、平家政権下、源氏ながらただひとり中央政界に留まった。


平家物語の群像 源頼政②保元・平治の乱を生き残る

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$吉備路残照△古代ロマン-保元・平治の乱合戦図屏風  保元・平治の乱合戦図屏風 
「白河殿夜討」 (江戸時代) メトロポリタン美術館所蔵



源頼政は、平時忠が 「平家に非ずんば人にあらず」 と豪語したほどに平家一門がわが世の春を謳歌していた清盛政権下、中央政界で源氏一族の長老の位置を占めていた。

摂津源氏の頼政にとって、ライバル河内源氏が保元・平治の乱を経て、壊滅的な打撃を受けたからだ。

もちろん、権力を握った平清盛に忠実だったからでもある。


保元元(1156)年7月、鳥羽上皇が崩御すると、朝廷内で権力争いが起きた。

天皇家では崇徳上皇後白河天皇が、摂関家では藤原頼長藤原忠通が対立。

それぞれ、源平を巻き込んで骨肉の戦いを繰り広げた。

★崇徳上皇方(兄) 藤原頼長(弟) 平忠正(叔父) 源為義(父)為朝(弟)

★後白河天皇(弟) 藤原忠通(兄) 平清盛 (甥)  源義朝(兄) 源頼政

この保元の乱は、後白河方の勝利で終わる。

親子兄弟が敵対して戦った河内源氏が受けた打撃の大きさは、容易に想像がつこう。


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平治元(1160)年12月9日、今度は、院近臣らの対立により平治の乱が勃発する。

実質的には、平家の清盛と源氏の義朝が、雌雄を決する戦いになった。

★藤原信西 平清盛 平重盛 源頼政(初めは信頼方)

★藤原信頼 源義朝 源義平 (頼朝、流刑)

この平治の乱で信西・清盛方が勝利すると、それまて源氏の主流だった河内源氏は没落、朝廷から姿を消した。

なお、信西は勝利した側のリーダー格でありながら、敵兵の探索から逃げている途中、自害している。

頼政は生き残ったが、保元の乱では後白河方の味方をして戦ったが恩賞にはほとんど預かれず、平治の乱のときも同族の義朝を敵に回してまで戦ったが、恩賞はわずかだった。

また乱後、嫡男の仲綱とともに、摂津源氏の祖・頼光以来の大内守護 (内裏を守護した職名) を何年も務めたが、昇殿はなかなか許されなかった。

こうみてくると、頼政には、かなり不満が募っていたのかも知れない。

相当老齢になってから (清盛より14歳ほど年長) 、自分の境遇を嘆くような和歌を一首詠んだ。



平家物語の群像 源頼政③のぼるべき たよりない身は 

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$吉備路残照△古代ロマン-源頼政 菊池容斎画 源頼政 菊池容斎画


○人知れぬ 大内山の 山守は 木隠れてのみ 月を見るかな

目立たない大内山 (大内裏) の番人は、 (地下人なので) 木に隠れるようにしてしか月 (天皇や公卿) を見ることができない

この歌によって正四位下を賜わり、清涼殿への昇殿が許された。

当時の源氏一門としては珍しくすぐれた歌人であった頼政は、藤原俊成や俊恵、殷富門院大輔など、多くの著名な歌人と交流があった。

作品は、『詞花集』 以下の勅撰和歌集に計59首も入っており、家集に 『源三位頼政集』 がある。

頼政は正四位下にはなったが、従三位からが公卿であり、正四位下とは格段の差がある。

70歳を超えた頼政は、一門の栄誉として従三位への昇進を強く望んでいた。

『平家物語』 によると、清盛は頼政の階位について完全に忘れており、そのため、頼政は長らく正四位下であった。

そのことを嘆いた頼政が、和歌を詠んだ。

○のぼるべき たよりない身は 木の下で しいを拾って 世を渡る

昇進のツテもコネもない私は、椎 (四位) のままで一生を終わるんだろうなぁ

この和歌によって、清盛は頼政が正四位下のままであることに気づいて、治承2 (1178) 年、従三位に昇進させたという。

時に、頼政74歳。

翌、治承3 (1179) 年11月には出家して、家督を嫡男の仲綱に譲った。

ただ、この頼政の従三位昇進は相当破格の扱いと受け止められたようで、九条兼実が日記  『玉葉』 に、「第一之珍事也」と記している。

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武芸にも秀でていた頼政には、一代の功名とすることが多々あるが、特に、仁平の頃 (1151~1154) 、近衛院が天皇だった頃、夜毎に苦しんだことがあった。

有験の高僧、貴僧によって大法・秘法が修せられたが、効果がない。

「(原文) 御悩は丑の刻ばかりの事なるに東三条の森の方より黒雲一叢立ち来たつて御殿の上に覆へば必ず怯えさせ給ひけり」

「丑の刻 (午前2時) 頃に、東三条の森の方角から一叢の黒雲が湧き上がり、御殿の上を覆うと、必ず怯えられた」

公卿らが、評議した。

平家物語の群像 源頼政④雲の中に怪しき物の姿あり

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$吉備路残照△古代ロマン-源頼政対鵺図 初代・歌川国安 「源頼政対鵺 (ぬえ) 図」

公卿らの評議の結果、 「堀河院も毎夜、物の怪に怯えられたことがある。その時は、源義家が弓を3度鳴らして、

『八幡太郎義家』 と名乗ると物の怪は消えた。今度も武士にやらせよう」 ということになった。

当時、宮廷や貴人の邸宅では、病気や雷鳴など不吉な出来事があった時は、弓弦 (ゆみづる) を鳴らして邪気を払う習わしがあったようだ。

武士は武力とともに、魔物を退散させる役割も担っていたことになる。

源雅頼の推挙で、頼政が選ばれたが、頼政には不満だった。

「(原文) 昔より朝家に武士を置かるる事は、逆反の者を退け、違勅の輩を亡ぼさんがためなり。目にも見えぬ変化の物つかまつれと仰せ下さるること、いまだ承り及ばず」

「昔から、朝廷に武士を配置するのは反逆者を退け、勅命に従わない連中を滅すため。目に見えない妖怪変化を退治せよなど、聞いたこともない」

とは言いながら、「(原文) 勅宣なれば召しに応じて参内す」

頼政は、腹心の遠江国の住人、猪早太 (いのはやた) を伴って参内した。

そして、二重の狩衣 (かりぎぬ) を着、山鳥の尾を矧 (は) いで作った矢を二筋、滋籐 (しげどう) の弓に添えて持ち、南殿の大床で待機した。

矢を二筋手挟 (たばさ :手や脇にはさんで持つ) んだのは、雅頼が、 「妖怪変化を退治できる者は頼政だろう」

と推挙したので、一筋の矢で妖怪変化を射損じたときは、二の矢で雅頼の首の骨を射るためであった。

天皇が怯える時刻が近づくと、東三条の森の方から黒雲が湧きだして、御殿を覆った。

「(原文) 頼政きつと見上げたれば雲の中に怪しき物の姿あり。射損ずるほどならば世にあるべしとも覚えず。

さりながら矢取つて番ひ、南無八幡大菩薩と心の内に祈念して、よつ引いてひやうと放つ。手応へしてはたと当たる。得たりやをうと矢叫びをこそしてけれ」



「頼政がきっと睨み上げると、黒雲の中に怪しい物が見える。射損じれば、とても生きながらえることはできない。

そう覚悟を決めると、矢を取って弓弦につがえ、 『南無八幡大菩薩』 と念じ、引き絞って、ひゅっと放った」

矢は、みごと妖怪変化に命中。

「してやったり」、頼政が喚声をあげると、猪早太が駆け寄ってきて、落下してきた獲物を取り押さえる。

そして、刀身だけでなく柄まで、柄を握る拳までも突き抜けろとばかりに、続けざまに九回激しく腰刀を突き立てた。

身分の上下を問わず、その場に駆けつけ、松明 (たいまつ) に火をつけると、頭は猿、身体は狸、尾は蛇、手と足は虎のようで、鳴く声は鵼 (ぬえ) に似ている。

恐ろしい、などという生易しいものではない。

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平家物語の群像 源頼政⑤弓張月の いるにまかせて

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$吉備路残照△古代ロマン-源頼政の鵺退治  源頼政公鵺退治之像
   長明寺 兵庫県西脇市高松町


近衛天皇は、頼政の手柄に対する褒美として 『獅子王』 という剣を与えた。

宇治左大臣 (藤原頼長 悪左府) が取りついで、御前の階段を半ほどまで降りてきた。

頃は4月10日過ぎ、ほととぎすが二声・三声鳴いて、雲間に飛んでいった。

頼長

○ほととぎす 名をも雲居に あげるかな

不如帰が空高く鳴いているが、そなたも宮中に武名をあげたことよ

詠いかけると、頼政は右の膝をつき、左の袖を広げて、月を横目に見やりつつ

○弓張月の いるにまかせて

弓を射るに任せて、偶然にしとめただけです

と詠んで、剣を賜って退いた。

頼政は弓矢を取っても無双だが、歌道にも優れていると、天皇も臣下もみな感心した。

妖怪変化は、丸木舟に入れて流したという。

また応保の頃、二条院が天皇だったとき、鵺 (ぬえ) という化鳥 (けちょう 怪しい鳥) が宮中で鳴き、帝を悩ませていた。

そこで、また頼政が呼ばれた。

5月20日過ぎの宵のころ、鵺は一声鳴いたきり。

真っ暗闇で姿が見えず、矢の狙いを定めることができない。

そこで、頼政は大きな鏑矢を取ってつがえ、鵺の声がした方へ射上げた。

すると、鵺は鏑矢の音に驚き、虚空で 「ひいひい」 と鳴いた。

二の矢に小さな鏑矢を取ってつがえて放つと、鵺と鏑矢が一緒に落ちてきた。

宮中はざわめき、天皇は頼政に御衣をお与えになった。





今度は、大炊御門 (おおひのみかど) 右大臣藤原公能 (きんよし) が預かって、頼政に与えるとき、「昔、楚の養由基は、はるか雲のかなたの雁を射た。頼政は、雨の中で鵺を射た」と感心していった。

そして、詠んだ。

○五月闇 名をあらわせる 今宵かな

五月の闇の中で、そなたは今宵立派な武名をあらわしたことよ

頼政が続けた。

○たそがれ時の 過ぎぬと思うに

黄昏時も過ぎ、人の姿も見分けられぬ暗闇となりましたので、わが名を名乗ったまでです

そして、御衣を肩に掛けて退出した。

その後、伊豆国を賜わると、嫡男の仲綱を受領に任じ、自身は三位となって、丹波国の五箇庄と若狭国の東宮川を所領とした。

そのまま静かに過ごしていたらよかったものを、つまらぬ謀反を起こして、以仁王を巻き添えにして、滅んでしまった。



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平家物語の群像 源頼政⑥恋しくば  来ても見よかし

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$吉備路残照△古代ロマン-木の下 宗盛、木の下に仲綱という焼き印を捺す

日ごろ、清盛に恩義を感じていた頼政が、なぜ謀反を起こしたのか。

『平家物語』は、頼政の嫡男仲綱の名馬 (木の下) をめぐって、宗盛がひどい侮辱を仲綱に加えたことが原因としている。

つまり、息子が受けた侮辱に耐えかねた頼政が、武士の意地から以仁王の邸を訪ね、「令旨」という大義名分を得て、平家打倒の兵を挙げたというのだ。

一方、頼光以来の大内守護として鳥羽院直系の近衛・二条天皇に仕えた頼政が、系統の異なる高倉・安徳天皇の即位に反発したという説もある。

また、以仁王との共謀自体、頼政挙兵の動機を説明づけようとした『平家』の創作で、出家している頼政が園城寺 (三井寺) 攻撃の命令に反対したため、平家に捕らえられることを恐れて、やむなく謀反に踏み切ったとする説もある。

思うに、保元・平治の乱をへて為義義朝らが敗死して河内源氏がほぼ壊滅したあとの平家全盛の世で、
摂津源氏の頼政がただひとり、中央政界に残っていることに対する世間や平家一門をふくめた貴族らの、心ない言葉や仕打ちが少なからずあったのではないだろうか。


さて、木の下は馬身は褐色で、尻尾や脚先などは黒い鹿毛 (かげ) 、乗り心地、疾走する姿、気性、すべて天下無双の名馬と言われ、内裏にまで聞こえていた。

この木の下を、平家一門の愚か者代表宗盛がほしくなった。

   平知盛①見るべきほどのことは見つ 参照  

(原文) 宗盛卿使者を立て、「聞え候ふ名馬を賜はつて見候はばや」と宣ひ遣はされければ、伊豆守の返事には、「さる馬をば持ちて候ひしを、このほどあまりに乗り疲らかして候ふほどに暫く労らせんが為に田舎へ遣はして候ふ」と申されければ、「さらんには力及ばず」とてその後沙汰もなかりけるが

(訳) 宗盛が使者を立てて、「評判の名馬を譲ってほしい」と伝えさせると、仲綱が、「そういう馬を持ってはいますが、この頃乗り回しすぎたので、しばらく休ませるために田舎へ置いてあります」と言ったので、
「それなら、仕方がない」と、その後は何もなかったが、




(原文) 多く並み居たりける平家の侍ども、あつぱれその馬は一昨日も候ひつ、昨日も見て候ふ、今朝も庭乗りし候ひつるなど口々に申しければ、

(原文) 「さては惜しむごさんなれ、憎し、乞へ」とて侍して馳せさせ、文などにても一日が内に五六度七八度など乞はれければ、三位入道これを聞き伊豆守に向かつて宣ひけるは、「たとひ金を丸めたる馬なりともそのほどに人の乞はうずるに惜しむべきやうやある。
その馬速やかに六波羅へ遣はせ」とこそ宣ひけれ。

(訳) 「さては物惜しみしたな、憎い奴だ。手に入れてこい」と使者を走らせ、手紙などでも1日に5・6度、7・8度としつこく要求したため、頼政がそのことを知って、仲綱に、「たとえ黄金で作った馬であっても、それほど人が所望するものを惜しむべきではない。すぐに六波羅へくれてやれ」と言った。

仲綱は、和歌を一首、書き添へて六波羅へ送った。

○恋しくば  来ても見よかし  身にそふる

    かげをばいかが  放ちやるべき

それほど恋しいなら、こちらへきてご覧なさるがよい。私の身に添って離れることのない影のような鹿毛を、どうして手放すことができましょうか


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平家物語の群像 源頼政⑦わが身に代へて思ふ馬なれども

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$吉備路残照△古代ロマン-三井寺と源頼政  頼政、仲綱、次男兼綱らが三井寺 (園城寺) に集結


宗盛は返歌もしないで、「みごとな馬だ。素晴らしい馬だが、仲綱があまりにも惜しんだのが憎い。仲綱と焼印せよ。」と命じ、馬に仲綱という焼印を押して厩 (うまや) に入れた。

客が、「評判の名馬を拝見したい。」というと、宗盛は、「その仲綱めに鞍を置け、引き出せ、ひっぱたけ。」などという。

          ……       ……

(原文) 伊豆守この由 (よし) を伝へ聞き給ひて、「仲綱が身に代へて思ふ馬なれども権威に就いて取らさるるさへあるに、剰 (あまつさ) へ仲綱が天下の笑はれ草とならんずる事こそ安からね。」と大きに憤られければ、

三位入道宣ひけるは、「何条事のあるべきと思ひ侮づつて平家の人どもがさやうの痴れ事をするにこそあんなれ。その儀ならば命生きても何かはせん。便宜を窺ふでこそあらめ」

(現代語訳) 仲綱は伝え聞いて、「わが身に代えてもと大事に思う馬を、権柄ずくで奪われたことさえ悔しいのに、天下の笑い者にされるとはあんまりだ。」と憤慨すると、

頼政は、「平家の連中は、われらが何もできないと侮って、そんなふざけた真似をするんだな。そういうことなら命はいらん。時機を待とう。」と決意を述べた。

          ……       ……

そんな宗盛の愚行を見るにつけても、世間の人々は、聡明であった重盛を偲んだ。




ある日のこと、重盛が参内 (さんだい) したついでに中宮 (異母妹の建礼門院徳子) の部屋を訪ねた折、八尺 (約2.4m) ほどの蛇が、重盛の袴の左の裾を這い回った。

「私が騒ぎ立てれば、女房たちも騒ぎだすだろうし、中宮も驚かれるだろう。」と考え、左手で蛇の尾を押さえ、右手で頭をつかんで、直衣 (のうし) の袖の中へ入れた。

そして、何事もなかったかのように立ち上がると、「六位の蔵人はいるか、六位の蔵人はいるか。」と呼ぶ。

すると、当時、衛府の蔵人 (くろうど) であった仲綱が、「はっ、仲綱がこちらに。」とやってきたので、蛇を渡した。

仲綱は弓場殿 (ゆばどの) を通り抜け、殿上の小庭に出ると小舎人 (こどねり) を呼んで、「これを受け取れ」と命じると、小舎人は、首を大きく横に振って逃げてしまった。

仕方なく、郎等の (きおう) を呼んで、蛇を渡した。

    平重衡①重衡卿は生田森の副将軍 参照


翌日、重盛は、仲綱のもとに鞍をつけた良馬を遣わした。

「昨日の振る舞いは、優雅でしなやかであった。この馬は乗り心地が素晴らしい。衛門府の詰所から遊女のもとへ通うときに使え」

仲綱は、重盛への返事として、「御馬、畏まって頂きます。それにしても、昨日の振る舞いは、舞楽の名曲で、西域の人が蛇を見て楽しみ木製の蛇を小道具に使うという『還城楽』に似ていました。」と申し上げた。

重盛はいつもこのように優雅に振る舞ったが、腹違いとはいえ弟の宗盛は、他人の大事な馬を奪い取って、天下に大事が起きるきっかけを作るとは情けないことだ。


5月16日夜、頼政、嫡子・伊豆守仲綱、次男・源太夫判官兼綱、六条蔵人仲家、その子・蔵人太郎仲光以下、
甲冑で武装した軍勢300余騎が、館に火をかけて焼き払い、三井寺へ向かった。


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平家物語の群像 源頼政⑧御馬一疋下し預り候はばや

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$吉備路残照△古代ロマン-競 (霞の上段)「競は居るか?」と尋ねる宗盛。 (霞の下段 左)宗盛の愛馬南鐐をだましとって三井寺 (園城寺) へ向う競。 (霞の下段 右)炎上する競の屋敷


頼政の長年の郎等に、渡辺源三競滝口という者がいた。

宮尾登美子の 『宮尾本 平家物語』 によると、
が都大路を歩くと、あまりの美しさに女たちは皆めまいがして倒れた。」ほどの美男ぶりである。

三井寺へ駆けつけるのが遅れて都に残っていたのを、宗盛が六波羅へ呼んで、「そちはどうして、頼政入道の供をせずに都にいるのか。」と尋ねた。

が、かしこまって答える。

「日頃、もしもの時は真っ先に駆けつけて、頼政殿に命を捧げるつもりでおりました。しかし今回はどうしたことか、何の知らせも頂けなかったのです」

宗盛は、「今後のことを考えて、当家に奉公するか。それとも、朝敵・頼政法師に味方するか。本音を申せ。」と問う。

競は、涙をはらはらと流しながら言った。

「たとえ代々のよしみがありましても、どうして朝敵となった方にお仕えできましょう。こちらに奉公いたします」

宗盛は、「ならば奉公するがよい。頼政入道以上の恩賞を与えよう。」と言い残して、奥へ入っていった。


日が暮れて宗盛が奥から出てくると、競が畏まって告げた。





(原文) 「三位入道殿三井寺にと聞え候ふ。定めて討手向けられ候はんずらん。入道の一類渡辺党さては三井寺法師にてぞ候はんずらん罷り向かつて選り討ちなども仕るべきに、乗つて事に逢ふべき馬を持ちて候ひしを、このほど渡辺の親しい奴めに盗まれて候ふ。御馬一疋下し預り候はばや」

(現代語訳) 「入道は三井寺にいるようです。討手を差し向けられるでしょうが、入道の一族の渡辺党や法師らが待ち受けておりましょう。私が、正面から討ちとってやります。こういう時のための馬を、渡辺党の親しい者に盗まれてしまいました。馬を一頭下げて頂けないでしょうか」


宗盛は、「そうだな」と、かわいがっている煖廷 (なんりょう 南鐐とも) という白葦毛の馬に、立派な鞍を置いて与えた。

頂いて屋敷へ帰ると、「日が暮れたら、三井寺へ馳せ参じよう。頼政殿の先陣を駆けて、討ち死にしよう。」と呟いた。

日が暮れると、妻子らを安全な場所に隠して三井寺へ出発。

大きな菊綴をつけた色鮮やかな紋の狩衣に、先祖代々の緋威の大鎧を着て、星白甲の緒を締め、厳めしい作りの大太刀を佩き、24筋差した大中黒の矢を背負った。

滝口の武士としての作法か、鷹の羽で作った的矢を一手、箙に添えている。

滋籐の弓を持って煖廷にまたがると、乗換用の馬に乗った従者を一人従え、屋敷に火をかけて三井寺へ駆けつけた。

六波羅では、「競の館が燃えている。」と騒ぎになった。

による、あざやかな復讐劇。

『平家物語』によって愚か者に設定されている宗盛公、まさに面目躍如である。



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平家物語の群像 源頼政⑨昔は煖廷 今は平宗盛入道

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$吉備路残照△古代ロマン-渡辺綱  渡辺綱:渡辺党の祖  (頼光四天王の筆頭)   『本朝武者鏡』  歌川国芳画


六波羅 (ろくはら:平家の拠点) では、 (きそお) の屋敷が炎に包まれているというので大騒ぎになった。

宗盛が、「競はいるか。競はいるか」と呼ばわると、「おりません。」という返事。

「しまった!! 競に謀られた。ただちに追撃せよ」

だが、競は勇猛で、矢継ぎ早の名手でもあったので、「競は、矢を24筋差している。24人は討たれるぞ。」と怖れて、だれも追撃しようとはしなかった。


その頃、三井寺 (園城寺) では、渡辺党の面々が集まって、競のうわさをしていた。

「何としてでも、競を連れてくるべきだった。六波羅で、どんなひどい目に遭っていることやら。」と口々にいっている。

競をよく知る頼政は、「競は、むざむざ捕えられたりはしない。心配するな。わしに忠義の者だ。必ずやってくる」

いい終わらないうちに、競が顔を見せた。

「仲綱殿の 『木の下 (このした) 』 の代わりに、六波羅の 『煖廷 (なんりょう 南鐐) 』 を奪って参りました」

そして、仲綱に煖廷を進呈した。




仲綱は大いによろこんで、すぐに煖廷の尻尾とたてがみの毛を切り、焼印を押して、六波羅へ送り返した。

(原文) 夜半ばかりに門の内へ追ひ入れたりければ厩に入りて馬共と食ひ合ひければ、その時舎人驚き合ひ、煖廷が参つて候ふと申す。

(現代語訳) 夜更けに煖廷を門内へ追い込んで厩 (うまや) に入れると、他の馬たちと喧嘩を始めたので、舎人 (とねり) たちが驚いて、「煖廷が戻って参りました。」と申し上げる。

宗盛が走り出て見ると、煖廷に、「昔は煖廷、今は平宗盛入道。」という焼き印が押してある。

「憎ったらしい奴だ、競め。斬り捨てるべきだった。油断して謀られた。今度、三井寺へ攻め込む者どもは、何が何でも競を生け捕りにせよ。のこぎりで首を斬り落としてやる」

地団駄を踏んで悔しがったが、煖廷の尾やたてがみの毛も生えてこず、焼印が消えることもなかった。


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平家物語の群像 源頼政⑩山門は心変はりしつ南都は

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$吉備路残照△古代ロマン-六波羅・法住寺殿復元図 六波羅・法住寺殿概念図

三井寺 (園城寺) では、法螺貝 (ほらがい) を吹いて大衆 (だいしゅ:天台宗で無役の修行僧) が評議していた。

延暦寺は心変わりした。興福寺はまだ来ない。今すぐ六波羅に夜討ちをかけよう。老若二手に分かれて、老僧は如意が峰から背面を突け。足軽を4、500人先に立てて白河の民家に火を放てば、平家の連中が駆けつけてくる。岩坂や桜本で防戦している間に、
正面は、松坂から、仲綱殿を大将軍として、荒法師たちが六波羅に突入し、風上に火をかけて焼き払えば、清盛入道は炙り出される。そこを討ち取ろう」

平家の祈祷をしていた一如房の阿闍梨 (あじゃり:師匠) 真海が、評議の庭に進みでた。

「平家の味方をしていると思うかも知れないが、夜討ちなどして宗徒としての面目をつぶし、われらが寺の名を惜しまずにいられようか。
かつては源平が朝廷を守ってきたが、近ごろは源氏の運が傾いて、平家が世を支配して20余年、天下になびかぬ草木もない。六波羅をたやすく攻め落とせるとは思えない。
よくよく計略を巡らして、後日、攻め込むのが得策だ。」と時間稼ぎのために長々と述べた。

乗円房の阿闍梨・慶秀が、評議の庭に進み出る。

天武天皇がまだ皇太子のとき、大友皇子の襲撃を受けて吉野の奥に逃げたが、従う者わずか17騎。それでも、美濃と尾張の軍勢をもって大友皇子を滅ぼした。
逃げ場を失った鳥が懐に飛び込んでくると人はこれを憐れむ、といにしえの書にある。今夜六波羅に押し寄せて、討ち死にしようではないか」



円満院大輔の源覚が進み出て、「議論はもうよい。夜が更ける。急げ」

頼政が搦め手へ向かう老兵たちの大将軍、大手の大将軍には、仲綱が就いた。その勢1500人余、三井寺を出発した。

以仁王が来てから、幾つかの道に堀をつくり、楯を並べ、逆茂木 (さかもぎ) で防御を固めていたので、出陣にあたって、堀に橋を渡し、逆茂木を取り除いているうちに、時間が進んでニワトリが鳴いた。

仲綱は、不安に駆られて命じた。
「ニワトリが鳴いた。六波羅へ着くのは昼だろう。夜討ちでこそ勝機があるが、明るくなれば勝ち目はない。戻ろう」

大手は松坂から戻り、搦め手は如意が嶺から引き返した。

大衆は、「真海の長口舌のため、夜が明けてしまった。やつの宿坊を叩き壊せ。」一如房に押し寄せて、破壊した。

真海は命からがら六波羅に着いて三井寺挙兵を伝えたが、すでに数万騎が馳せ集まっていて少しも騒ぐ気配がない。


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平家物語の群像 源頼政⑪以仁王と橋合戦

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$吉備路残照△古代ロマン-宇治橋と紫式部像 宇治橋と紫式部像


以仁王 (高倉宮) は23日の明け方、三井寺を出て、奈良へ落ちて行った。

源頼政渡辺党、三井寺の大衆ら1500人余が従った。

乗円坊の慶秀が鳩の杖にすがって以仁王の前に進み出ると、老いた目から涙をはらはらと流した。

「どこまでもお供させて頂きたいのですが、わたしはすでに齢80を超えました。もはや歩くことさえままなりません。弟子の俊秀をお連れ下さい」

以仁王はあわれに思って、「お前とは何のよしみもないのに、どうしてそこまで思ってくれるのか」と涙をあふれさせた。

以仁王は、寝不足のせいか三井寺から宇治までに6度も落馬。

平等院でしばらく休むことにした。


その頃、六波羅では、「以仁王が奈良へ逃げたぞ。追っかけて討ち取れ」と騒ぎになっていた。

大将軍は平知盛平重衡平忠度の3人。

28000騎あまりが木幡山 (こはたやま) を越えて宇治橋まで押し寄せ、敵は平等院にいると見て、3度ときの声をあげた。

以仁王方も、鬨の声をあげて応じる。

平家方の先陣が、「敵は、橋板をはがしているぞ。むやみに進むな」とどなった。

だが、後陣にはその声が聞こえず、血気にはやる者らが、われ先にと進むうちに200騎余りが川に落ちた。


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宇治川をはさんで両陣が対峙し、矢合わせが始まった。

以仁王方の大矢の俊長、五智院の但馬、渡辺省 (はぶく)・授 (さずく)、続源太 (つづくのげんた)らが射る矢は、楯で防ぐことができず、鎧も貫く。

頼政は、今日を最後と思い定めたか、絹織物の直垂の一種「長絹」に、藍革に白く葉のような模様を染め出した革で縅 (おど) した鎧を身に付け、甲はかぶらなかった。

仲綱は、赤地の錦の直垂に、黒糸縅の鎧姿。弓を強く引くためか、やはり甲をかぶらなかった。





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