藤原俊成卿 愛知県蒲郡市竹島園地
都へ攻め上ってくる木曽義仲の勢いに追われるように、平家一門は西国を目指して都を落ちていった。
忠度も行動を共にするが、途中、列を離れて都へ引き返す。
そして藤原俊成を訪ね、勅撰集が編纂されるようなら是非、自分の作品を一首でも採り上げてくれるよう懇願した。
都落ちは平家没落への行軍であって再び都へ戻ることはないということが、忠度には見えていたのだろう。
だから、武士として常ならぬ現世に生きることを捨て、歌人として永遠に生きた証(あかし)を残そうとしたのだ。
…… ……
○三位うしろをはるかに見送つて立たれたれば、忠度の声とおぼしくて、「前途程遠し、思ひを雁山の夕べの雲に馳す(大江朝綱の漢詩)」と高らかに口ずさみ給へば、
俊成が忠度の後ろ姿が遠くなるまで見送っていると、「前途は遙かに遠い。今、私は、これから越える雁山の夕暮れの雲に思いを馳せています」と、忠度が高らかに吟じる声が聞こえ、
○俊成卿いとど名残り惜しう覚えて涙を押さへてぞ入り給ふ。
俊成はいっそう名残惜しく思い、涙をおさえて邸内に入られた。
○その後、世静まつて、千載集を撰ぜられけるに、忠度のありさま、言ひ置きし言の葉、いまさら思ひ出でてあはれなりければ、かの巻物のうちに、さりぬべき歌いくらもありけれども、
世の中が落ち着いて、俊成が千載集を撰んだ時、あの時の忠度の様子や言い残した言葉を改めて思い出して哀れに思い、巻物の中に採録できる優れた和歌はたくさんあったが、
○勅勘の人なれば名字をば表されず故郷の花といふ題にて詠まれたりける歌一首ぞ、読人知らずと入れられける。
朝敵なので名前を公表できず、「故郷の花」という題で詠まれた歌一首を、「読人知らず」としてお入れになった。
「古郷の花」といへる心を詠み侍りける 読人知らず
○さざ波や 志賀の都は 荒れにしを 昔ながらの 山桜かな
大津京は、今は荒れてしまったが、長良山に咲く桜は昔のままの山桜であることよ
○その身朝敵となりにし上は、子細に及ばずといひながら、恨めしかりしことどもなり。
忠度が朝敵となったからには仕方がないが、読人知らずとするのは切なく残念である。
…… 原文に忠実な訳ではありません ……
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平家物語の群像 忠度④読み人知らず
平家物語の群像 忠度⑤一の谷の戦い
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風雅の人・平忠度(ただのり)は、紀州熊野の育ちで、怪力と早わざの持ち主であったという。
熊野育ちといえば、怪力無双の悪僧で源義経の家来、武蔵坊弁慶と同郷である(『平家物語』による)。
忠度は、都育ちの異母兄弟や甥たちとは毛色のちがう、堂々たる体躯を誇っていたのではないだろうか。
平家一門が公家化する以前の、地方に土着の武士として山野を駆け回っていたころの野性的な血が流れていた、最後の人物なのかもしれない。
その薩摩守は、一の谷の戦いでは、谷の西側を大将軍として守っていた。
源氏軍の主力は、都のある東からやって来るだろう。
平家の精鋭部隊は、知盛(とももり)と重衡(しげひら)を大将軍として、一の谷の東部方面に布陣した。
忠度が指揮を執る西側の兵には平家の家来は少なく、多くが諸国からの寄せ集めであった。
烏合の衆は、義経の奇襲で形勢が不利になると、クモの子を散らすように逃げてしまった。
…… ……
○薩摩の守忠度は、西の手の大將軍にておはしけるが其の日の装束には、紺地の錦の、直垂(ひたたれ)に、黑絲縅の鎧著て、黑き馬の太う逞しきに、沃懸地(いつかけぢ)の鞍置いて乘り給ひたりけるが、
忠度は、一の谷西側の大将軍で、紺地の錦の直垂に黒糸おどしの鎧を着、黒の太くたくましい馬に、ゐかけ地(漆塗りの上に金粉をふりかけた)の鞍を置いて、乗っていたが、
○其の勢百騎ばかりが中に打圍まれて、いと騷がず控へ控へ落ち給ふ所に、こゝに武藏の國の住人岡部の六彌太忠純、よき敵と目を懸け、鞭鐙を合せて追っかけ奉り、あれは如何に、よき大將軍とこそ見參らせて候へ。正(まさ)なうも敵に後を見せ給ふもの哉。返させ給へと言(ことば)を懸けければ、
敵勢百騎ばかりに囲まれても慌てず、時々馬をとめて戦いながら落ちて行くのを、岡辺六野太忠純(おかべのろくやたただずみ)が目をつけ、馬に鞭打って忠度を追っかけて、「敵に後ろを見せるとは卑怯ですぞ。お戻り下さい」と声をかけると、
○これは御方(みかた)ぞとて、ふり仰(あふの)き給ふ内甲(うちかぶと)を見入れたれば、鐵漿黑(かねぐろ)なり。
「味方だぞ」と言って忠度が振り返った兜の中を覗きこむと、お歯黒で歯を黒く染めている。
○あつぱれ、味方に鐵漿(かね)付けたる者はなきものを。如何樣(いかさま)にも、これは平家の公達にてこそおはすらめとて、押雙べてむずと組む。
源氏方にお歯黒をしている人はいない。平家の公達にちがいないと思い、馬を押し並べてむずと組んだ。
…… 原文に忠実な訳ではありません ……
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平家物語の群像 忠度⑥御方ぞと云はば云はせよかし
熊野育の大力、究竟の早業
『平家物語』によると、坂東武者を中心とする源氏の武将たちは、戦場で雄叫びを上げて敵と戦うだけの無骨者である。
平家には、武芸だけではなく、詩歌管弦などのみやびな世界に心を遊ばせる風流人が少なくない。
盛者必衰の理 (ことわり) 通りに滅亡していった平家。
その大波に流されて散っていった一門の人々。
『平家』は彼らに与えられた現世でのはかない運命に、文学や芸術そして西方浄土という、永遠の命を吹き込もうとしたのだろうか。
…… ……
○薩摩の守は聞ゆる熊野育の大力、究竟の早業にておはしければ、六彌太を摑(つか)うで、憎い奴が、御方ぞと云はば云はせよかしとて、六彌太を捕つて引寄せ、馬の上にて二刀(ふたかたな)、落付く所で一刀、三刀までこそ突かれけれ。
忠度は「憎い奴め。味方だと言ったのだから、味方だと思えばよかったのだ」と言って、熊野育ちの怪力と早わざで、刀を抜くと六野太を馬の上で2度、馬から落ちたところで1度突いた。
○二刀は鎧の上なれば通らず、一刀は内甲へ突入れられたりけれども、薄手なれば死なざりけるを、取つて押へて頸搔かんとし給ふ處に、六彌太が童、殿馳(おくればせ)に馳せ來て、急ぎ馬より飛んで下り、打刀を拔いて、薩摩の守の右の肘(かひな)を、臂(ひぢ)のもとよりふつと打落す。
1度目と2度目は鎧の上で通らず、3度目は内兜を突いたが浅すぎた。取り押さえて首を掻こうとしていると、六野太の家来がかけつけ、忠度の右腕を肘のもとから斬り落とした。
○薩摩の守、今はかうとや思はれけん、暫し退(の)け、最期の十念唱へんとて、六彌太を摑(つか)うで、弓長(ゆんだけ)ばかりぞ投げ退けらる。
忠度はもはや最期と思ったのか、「しばらく、下がっておれ。十念(南無阿弥陀仏と十遍唱えること)を唱える」といって、六野太をつかんで弓の長さ(七尺五寸。約2.2m)ほど投げ捨てた。
○其の後西に向ひ光明遍照十方世界、念佛衆生攝取不捨と宣ひも果てねば、六彌太、後より寄り薩摩の守の頸を取る。
忠度が西方に向かって十念を唱え、「光明遍照十方世界、念仏衆生攝取不捨(仏の光明はあまねく十方世界を照らし、念仏を唱える衆生を救いとってお捨てにならないという意味)」と言い終わると、六野太が後ろから忠度の首を討った。
…… 原文に忠実な訳ではありません ……
◇岡辺六野太忠純は、埼玉県深谷市萱場の清心寺に忠度の遺髪を持ち帰って葬ったという。供養墓が残っている。
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平家物語の群像 忠度⑦花や今宵の主ならまし
旅宿(りょしゅく)の花
一の谷の戦いで討たれた平家の主だった武将は十人、と伝えられている。
越前三位通盛(みちもり)、その弟蔵人大夫業盛(なりもり)、
薩摩守忠度(ただのり)、武蔵守知章(ともあきら)、備中守師盛(もろもり)、尾張守清定(きよさだ)、淡路守清房(きよふさ)、
修理大夫経盛の嫡子皇后宮亮経正(つねまさ)、その弟若狭守経俊(つねとし)、同じく大夫敦盛(あつもり)。
清盛亡きあと、一門の事実上のリーダーであった父・知盛(とももり)の身代わりとなって討ち死にした智章。
熊谷次郎直実がのちに出家する一因ともなった、健気な振る舞いが哀れをさそう敦盛。
ともに、まだ十代半ばである。
彼らのことを思うと、昔の日本人には凛とした気品があったような気がしてならない。
こうした犠牲を払って、平家は四国の屋島に退いた。
…… ……
○よい首討ち奉つたりとは思へども、名をば誰とも知らざりけるが、箙に結付けられたる文(ふみ)を取つて見ければ、旅宿の花と云ふ題にて、歌をぞ一首詠まれたる、
身分の高い敵を討ちとったが、名前か分からないので箙(えびら:矢を入れて右腰につける武具)に結んである書付を解いてみると、旅宿の花という題で歌を一首詠んでいた。
○行き暮れて 木(こ)の下陰(したかげ)を 宿とせば
花や今宵の 主(あるじ)ならまし
日が暮れて、桜の木の下を今宵の宿とするならば、桜の花が主人としてもてなしてくれるだろう
○忠度と書かれける故にこそ、薩摩の守とは知りてげれ。
その書付に、忠度と書かれていたので薩摩守とわかった。
○やがて、頸をば太刀の鋒(さき)に貫き、高く差上げ、大音聲を揚げて、此の日來(ひごろ)日本國に鬼神と聞えさせ給ひたる薩摩の守殿をば、武藏の國の住人、岡部の六彌太忠純が討奉つたるぞやと、名のつたりければ、
六野太は、忠度の首を太刀の先に貫き、高く差し上げ大声で、「鬼神といわれる薩摩守殿を、お討ち申したぞ」と名乗ったので、
○敵も御方もこれを聞いて、あないとほし、武藝にも歌道にも勝れて、よき大將軍にておはしつる人をとて、皆鎧の袖をぞ濡しける。
「ああ、お気の毒に。武芸にも歌道にも秀でておられた方を。立派な大将軍を」と、敵も味方も鎧の袖を涙で濡らした。
…… 原文に忠実な訳ではありません ……
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平家物語の群像 敦盛①敵に後ろを見せさせたまふものかな
平敦盛『源平合戦図屏風』より
敦盛(あつもり)は、清盛の実弟経盛(つねもり)の三男。
織田信長が好んで舞ったと伝わる能『敦盛』の、敦盛である。
敦盛の長兄に、経正(つねまさ)という琵琶の名手がいる。
彼らは、武家平氏で初めて昇殿を許されて貴族の仲間入りを果たした祖父・忠盛から数えて三代目。
もはや、武士というより公家というイメージの方が強い。
ただ、平家一門の者にしても貴族社会にはいって初めて風雅の道を知ったわけではない。
忠盛と忠度がいい例だろう。
個人の資質として、立派な歌人であった。
一門ではないが、北面の武士として清盛と親交のあった西行というスターもいる。
三代目の経正と敦盛は、生まれながらの公達である。
経正が琵琶の名手なら、敦盛は笛の名人。
…… ……
○戦破れにければ、熊谷次郎直実、「平家の公達、助け船に乗らむと、みぎはの方へぞ落ちたまふらむ。あつぱれ、よからう大将軍に組まばや」とて、磯の方へ歩まするところに、
平家が敗れたので、直実が、「貴公子たちが助け船に乗ろうと波打ち際の方に逃げなさるだろう。あぁ、立派な大将軍と組みたいものだ」と、海岸の方へ馬を歩ませていくと、
○練貫(ねりぬき)に鶴縫うたる直垂(ひたたれ)に、萌黄匂(もよぎにほひ)の鎧着て、鍬形(くはがた)打つたる甲の緒締め、黄金作りの太刀をはき、切斑(きりふ)の矢負ひ、滋籐(しげどう)の弓持つて、連銭葦毛(れんぜんあしげ)なる馬に、金覆輪(きんぷくりん)の鞍置いて乗つたる武者一騎、
練貫に鶴の縫い取りをした直垂の上に萌黄匂の鎧を着て、鍬形をつけた甲の緒を締め、黄金(こがね)作りの太刀を腰につけ、切斑の矢を背負い、滋籐の弓を持ち、連銭葦毛の馬に金覆輪の鞍を置いて乗った武者が一騎、
(上図の、敦盛の武者姿の説明です)
○沖なる船に目をかけて、海へざつとうち入れ、五、六段ばかり泳がせたるを、
沖の船を目指して海へ乗り入れ、五、六段泳がせたのを、
○熊谷、「あれは大将軍とこそ見まゐらせ候(さうら)へ。まさなうも敵に後ろを見せさせたまふものかな。返させたまへ」と扇を上げて招きければ、招かれて取つて返す。
熊谷は、「大将軍とお見受けします。敵に後ろを見せるのは卑怯ですぞ。お戻り下さい」と、扇を上げて招くと、武者は引き返してきた。
…… 原文に忠実な訳ではありません ……
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平家物語の群像 敦盛②容顔まことに美麗なり
直実、扇を上げて敦盛を招く 須磨寺「源平の庭」神戸市
経正は歌も詠む俊才として知られ、ことに琵琶の名手として名声を得た。
藤原俊成や仁和寺門跡の守覚(しゅかく)法親王ら文化人との親交が深く、守覚から中国伝来の琵琶の名器・青山(せいざん)をいただいた。
経正の、琵琶の腕前にまつわる逸話が残っている。
北国で挙兵した木曾義仲を討つべく平家の大軍が出陣したとき、経正は琵琶湖に浮かぶ竹生島に戦勝祈願に向かった。
都玖武須磨神社に詣でると、神主が琵琶の名手・経正が参拝している事を知り、琵琶を弾いてくれるように頼む。
経正が弾き始めると、琵琶の音はこの世のものと思えぬほどに美しく、その妙なる楽の音に誘われて、白龍が現われ、経正のまわりを飛んだという。
白龍に吉兆をみた経正は、北国での勝利を確信した。
だが、平家は倶利伽羅峠の戦いで木曽軍に惨敗、経正も都へ逃げ帰るがほどなく都落ちする。
都落ちのさいに隊列を離れ、青山を預けるために危険を冒して仁和寺に駆けつけた逸話は有名だ。
経正は、一ノ谷の戦いにおいて河越重房の手勢に討ち取られる。
同じころ、近くで弟の敦盛を討った熊谷次郎直実は自身が武士であることを嘆き、あたり憚らず男泣きに泣いていた
…… ……
○みぎはにうち上がらむとするところに、押し並べてむずと組んでどうど落ち、取つて押さへて首をかかむと甲を押しあふのけて見ければ、年十六、七ばかりなるが、薄化粧して、かね黒なり。
敦盛が波打ち際に上がろうとするところを、直実は馬を並べて、むんずと組んでどっと落ち、取り押さえて首をとろうと甲を脱がすと16~7歳ほどで、薄化粧をしてお歯黒に染めている。
○わが子・小次郎が齢(よはひ)ほどにて、容顔まことに美麗なりければ、いづくに刀を立つべしともおぼえず。
わが子・小次郎の年齢ほどの美少年、どこに刀を突き立てたらいいか分からない。
…… 原文に忠実な訳ではありません ……
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平家物語の群像 敦盛③あはれ助けたてまつらばや
「無官の太夫敦盛 熊谷次郎直実組討の図」 歌川豊国画 神戸市立博物館所蔵
敦盛が愛用した名笛『小枝(さえだ)』は、祖父の忠盛が鳥羽院からたまわり、忠盛が次男の経盛に与え、それから敦盛に伝わっている。
一の谷の殺伐とした陣中に流れる敦盛の美しい笛の音色は、殺し合いの明け暮れにささくれだった武士たちの気持ちを慰めてもいたようだ。
源平を問わず、感受性の豊かな武士たちの中には涙する者もいたであろう。
それにしてもなぜ、味方の軍船に向かって馬を泳がせているところを坂東のむくつけき荒武者に呼び止められるや、素直に引き返したのだろうか。
殺されに行くようなものだ。
……
○「そもそもいかなる人にてましまし候ふぞ。名のらせたまへ。助けまゐらせむ」と申せば、「汝は誰そ」と問ひたまふ。
直実が、「どなたでしょうか。お名乗り下さい。お助けしましょう」と言うと、「お前は誰か」とお尋ねになる。
○「物その者で候はねども、武蔵の国の住人、熊谷次郎直実」と名のりまうす。
直実は、「物の数に入る者ではありませんが、武蔵野国の熊谷次郎直実と申します」と名乗る。
○「さては、汝に会うては名のるまじいぞ。汝がためにはよい敵ぞ。名のらずとも首を取つて人に問へ。見知らうずるぞ」とぞのたまひける。
「それでは名乗るまい。お前の手柄になるぞ。首を取って人に尋ねよ。見知っている者があろう」とおっしゃった。
○熊谷、「あつぱれ、大将軍や。この人一人討ちたてまつたりとも、負くべき戦に勝つべきやうもなし。また討ちたてまつらずとも、勝つべき戦に負くることもよもあらじ。小次郎が薄手負うたるをだに、直実は心苦しうこそ思ふに、この殿の父、討たれぬと聞いて、いかばかりか嘆きたまはむずらむ。あはれ助けたてまつらばや」と思ひて、
直実は、「立派な大将軍だ。この人を討ち取ろうと助けようと、戦況に変わりはない。小次郎が軽傷を負っても自分は辛かっのに、この殿の父上はわが子が討たれたと聞いたら、どんなに嘆かれるだろう。お助けしたいものだ」と思って、
○後ろをきつと見ければ、土肥・梶原五十騎ばかりで続いたり。
振り返ると、土肥実平と梶原景時が五十騎ほどでやってくる。
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平家物語の群像 敦盛④人手にかけまゐらせむより
平敦盛『前賢故実』菊池容斎筆
生まれながらの公達は、もとより坂東に聞こえた豪傑・直実の敵ではなかった。
馬を並べられるや地面に落とされ、簡単に組み敷かれる。
直実が若武者の首を取ろうと顔を仰向けると、意外にも薄化粧をした16、17歳の美少年。
息子の直家と同じ年恰好である。
わが子の顔を思い浮かべた直実は、一気に少年に心を寄せてしまった。
とても殺せない……。
今朝の平家方との攻防で、息子の直家が浅い手傷を負っただけで、ひどく動揺した。
少年が討たれた、と耳にした少年の父(平経盛)は、どんなにか嘆き、悲しまれるだろう。
直実は、「お助けしましょう」と申し出る。
だが、少年は、「お前の手柄になるぞ。早く首を取れ」と言い放つ。
直実は武士である身を悔やみ、袖を顔に押し当てて号泣するのである。
…… ……
○熊谷涙を抑へて申しけるは、「助けまゐらせむとは存じ候へども、味方の軍兵(ぐんびやう)雲霞(うんか)のごとく候ふ。よも逃れさせたまはじ。
直実が涙をこらえて、「お助けしたいのですが、味方の軍勢が大勢やってきます。もはや逃げられません。
○人手にかけまゐらせむより、同じくは直実が手にかけまゐらせて、後の御孝養(おんけうやう)をこそつかまつり候はめ」と申しければ、
他の者の手にかけさせるより私が、そして後々まで供養致しましょう」というと、
○「ただとくとく首を取れ」とぞのたまひける。
「早く、早く首を取れ」とおっしゃった。
○熊谷あまりにいとほしくて、いづくに刀を立つべしともおぼえず、目もくれ心も消え果てて、前後不覚におぼえけれども、さてしもあるべきことならねば、泣く泣く首をぞかいてんげる。
あまりにいたわしく、どこに刀を立てたらよいかも分からず、目は涙にくもり茫然自失としていたが、そうしてばかりもいられず、泣く泣く首をとった。
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平家物語の群像 敦盛⑤武芸の家に生まれずは
坂東武士の家に生まれたからにはひたすら武芸を磨き、いつしか大きな手柄をたてて立身する。
あわよくば、広大な土地を所有する。
直実の前半生は、敦盛のことがあるまで、それに向かって猪突猛進していたのではないだろうか。
一の谷においても、源平の戦いの決着がついたあと、大きな手柄を立てようと平家の大将クラスの武将を探し回っている。
つい先ごろまで、敦盛のいとこにあたる平知盛(とももり)の家人(けにん:家来)であった直実が、である。
もし、どこかで知盛と遭遇していたら、相手が旧主でも一対一で命の奪いあいをしたのだろうか。
それはともかく、手柄を立てようと、戦い終わった戦場の周辺を馬で走っているうちに、味方の軍船に逃れようと軍馬を泳がせている、立派な身なりの敦盛を見かける。
そして、「逃げるのは卑怯ですぞ。お戻りあれ」と呼び止めた。
それにしてもなぜ、敦盛は屈強の荒武者目がけて馬首をめぐらしたのか。
「卑怯」といわれて誇りが許さなかった、という程度の単純な理由ではあるまい。
文科系の部活に所属している高校生が、命をかけて悪役プロレスラーに立ち向かうようなものだ。
しかも、陸地にはまだ源氏軍がひしめいているということも分かっていたはず。
まちがいなく、17歳にして玉砕覚悟の行動である。
敦盛は哀れにも、死地を求めたとしか私には思えない。
…… ……
○「あはれ、弓矢取る身ほど口惜しかりけるものはなし。武芸の家に生まれずは、何とてかかる憂き目をば見るべき。情けなうも討ちたてまつるものかな」とかきくどき、袖を顔に押し当ててさめざめとぞ泣きゐたる。
「武士であることほど悔やまれることはない。武士の家にさえ生まれていなければ、こんなに辛い目に遭うことはなかったろう。情けなくも討ちとり申し上げたものだ」と嘆いて、袖を顔に押し当てて、さめざめと泣いていた。
○やや久しうあつて、さてもあるべきならねば、鎧直垂を取つて首を包まむとしけるに、にしきの袋に入れたる笛をぞ腰に差されたる。
いつまでも泣いているわけにもいかず、その少年の鎧(よろい)と直垂(ひたたれ)をはずし、布で首を包もうとしたところ、錦の袋に入れた笛を腰に差しておられた。
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平家物語の群像 敦盛⑥戦の陣へ笛持つ人はよもあらじ
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直実は心ならずも敦盛を討ったことで人の命のはかなさ、人の世の無常を感じて出家したと一部には思われているようだが、それはいささか違うようだ。
直接の原因ではなく、遠因といったほうが近い。
もちろん、高度成長期の猛烈サラリーマンばりに一直線に生きてきた猪武者に、「ものの哀れ」を知るという人生の彩りを与えたのは確かだろう。
だが、出家の直接の機縁はもっと現実的で泥臭い。
頼朝の自分に対する扱いへの不満と、叔父(あるいは伯父)久下直光との土地争いにおける敗北が直接の原因のようだ。
土地争いの裁定に負けると、直実は証拠書類を投げ捨てて座を立って、刀を抜いて髻(もとどり;頭髪)を切り、私宅にも帰らず逐電してしまった。(『吾妻鏡』)
この時の敗北が現世への失望となり諦観となり、敦盛を討ったときの無常感につながったのではないだろうか。
「罪の軽重をいはず、ただ、念仏だにも申せば往生するなり、別の様なし」という法然の言葉を聞いて、切腹するか、手か足を一本切り落とそうと思っていた直実は、さめざめと泣いたという。(井川定慶集「法然上人伝全集」)。
直実は法然の浄土門に深く帰依するが、源平争乱期における法然の存在感の大きさには驚くべきものがある。
…… ……
○「あな、いとほし、この暁城の内にて管弦したまひつるは、この人々にておはしけり。当時味方に東国の勢何万騎かあるらめども、戦の陣へ笛持つ人はよもあらじ。上臈(じやうらふ)はなほもやさしかりけり」とて、
「実に、いたわしい。明け方、城内で笛を吹いていたのはこの方々だったのだ。味方には東国武士が何万騎もいるだろうが、戦場へ笛を持ってくる者などおるまい。高い身分の人はやはり優雅なものだ」といって、
○九郎御曹司の見参に入れたりければ、これを見る人、涙を流さずといふことなし。
義経公のお目にかけたところ、これを見た居並ぶ人々人はみんな涙を流した。
○後に聞けば、修理大夫経盛(しゆりのだいぶつねもり)の子息に大夫(たいふ)敦盛とて、生年(しやうねん)十七にぞなられける。
あとで聞くと、平経盛の子息で敦盛といい、17歳であった。
…… 原文に忠実な訳ではありません ……
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平家物語の群像 那須与一①沖より尋常に飾つたる小舟一艘
源氏軍の進攻経路 (一の谷の戦い&屋島の戦い)
一の谷の戦いで大きな犠牲を払って敗北した平家一門は、海上を四国の屋島に逃れた。
だが、すぐに義経が迫ってくる。
義経は、戦術において天才的な発想のひらめきがあり、行動が迅速だ。
しかも、いつも自分が真っ先に突き進む。
鎌倉を一歩も動かず、戦略を練っている異母兄の頼朝とは好対照である。
ふたりの兄弟の間に亀裂がはいったのは、この屋島攻めの時からだという。
詳細は略すが、義経と軍目付(いくさめつけ)の梶原景時が作戦の立て方で反目して以来、景時がことあるごとに義経の悪口を頼朝に告げているからだ。
那須与一の子孫だという那須義定著『天の弓那須与一』によると、与一も、景時の讒言によって頼朝の勘気をこうむり、越後に配流されている。
軍目付の景時と対立した結果、義経は、激しい嵐の中を直属のわずかな部下だけを率いて四国に向かった。
…… ……
○さるほどに、阿波・讃岐に平家を背いて、源氏を待ちける者ども、あそこの峰、ここの洞(ほら)より、十四、五騎、二十騎、うち連れ参りければ、、判官ほどなく三百騎にぞなりにける。
そのうち、阿波と讃岐で平家に背いて源氏の到着を待っていた者らが、あそこの峰やここの洞穴から14、5騎、20騎と連れだってきたので、義経の軍勢はほどなく三百余騎となった。
○「今日は日暮れぬ。勝負を決すべからず」とて、引き退くところに、沖の方より尋常に飾つたる小舟一艘、汀(みぎは)へ向いてこぎ寄せけり。
「今日は日が暮れてしまった。決戦は明日だ」と軍を引いていると、沖のほうから立派に飾った小舟が一艘、海岸の方へ漕ぎ寄せてきた。
○磯へ七、八段ばかりになりしかば、舟を横さまになす。
そして、磯まで七、八段(約77~88m)ばかりのところで、舟を横向きにした。
…… 原文に忠実な訳ではありません ……
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平家物語の群像 那須与一②齢十八、九ばかりなる女房の
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平家物語を少しでも知っている社会人や学生に、「平家物語に登場する人物の名前を、思いつく順にいえ」と尋ねると、多くの人がまず挙げるのが平敦盛であり那須与一だそうだ。
面白いことに、平清盛や源頼朝そして後白河法皇ら、当時の社会を動かした政界の大立者を思い浮かべる人はほとんどいないらしい。
敦盛と与一に焦点が当たるのは、それぞれ一回きりだ。
ふたりが当時の社会に及ぼした影響など、なきに等しい。
そんな彼らがなぜ、800年の時を超えて我々の心の中に住んでいるのだろうか。
やはり、日本人好みの名場面を伴っているからに違いない。
敦盛には哀れなまでに潔い最期のシーンがあり、与一には華麗でみやびな見せ場がある。
ともに一幅のすぐれた絵画である。
しかも、これらの場面は必ずといっていいほど絵本に載っているし、また教科書にも掲載される。
…… ……
○「あれはいかに」と見るほどに、舟の内より齢十八、九ばかりなる女房の、まことに優に美しきが、柳の五衣(いつつぎぬ)に紅の袴着て、皆紅(みなぐれなゐ)の扇の日出だしたるを、舟のせがいにはさみ立てて、陸(くが)へ向いてぞ招いたる。
「あれは?」と見ると、舟の中から18、9歳ほどの優美な女房が、柳の五衣に紅の袴を着けて、紅色の地に金箔で日の丸を描いた扇を、舷に沿って棚のように渡した左右の脇板に挟み、こちらへ向かって手招きをしている。
○判官、後藤兵衛実基(ごとうびやうゑさねもと)を召して、「あれはいかに」とのたまへば、「射よとにこそ候ふめれ。ただし大将 矢面(やおもて)に進んで傾城(けいせい:美女)を御覧ぜば、手だれにねらうて射落とせとのはかりことと覚え候ふ。さも候へ、扇をば射させらるべうや候ふらん」と申す。
義経が実基を呼んで、「あれはどういうことか」と尋ねると、実基は、「扇を射よというのでしょう。但し、殿が矢の届く所に出て、あの美人をご覧になれば、弓の上手に殿を狙わせる計略でしょう。そうだとしても、誰かに扇を射させるのがよろしいでしょう」と申し上げる。
…… 原文に忠実な訳ではありません ……
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平家物語の群像 那須与一③与一宗高こそ小兵で候へども、
鶴富屋敷(那須大八郎と鶴富姫の悲恋の舞台) 宮崎県東臼杵郡椎葉村上椎葉
宮崎県民謡の『ひえつき節』を御存じだろうか。
よほどの民謡好きでないと、かすりもしないかな。
庭のさんしゅの木鳴る鈴かけて ヨーホイ
鈴の鳴るときゃ出ておじゃれヨ
鈴の鳴るときゃ何というて出ましょヨ ヨーホイ
駒に水くりょというて出ましょヨ
おまや平家の公達流れヨ
おどま追討の那須の裔ヨ
那須の大八鶴富おいてヨ ヨーホイ
椎葉たつときゃ目に涙ヨ
http://www.youtube.com/watch?v=3qtS7HVOQFc
那須の大八は与一の弟、鶴富姫は平家の末裔で椎葉の娘。
ふたりは恋仲。
ひえつき節は、平家落人追討伝説と悲恋の民謡だった。
…… ……
○「射つべき仁は御方(みかた)に誰(たれ)かある」とのたまへば、「上手どもいくらも候ふ中に、下野国の住人、那須太郎資高(すけたか)が子に、与一宗高(むねたか)こそ小兵(こひやう)で候へども、手利(てき)きで候へ」。
義経が、「扇を射落とせる者が味方にいるか」とおっしゃると、実基は、「弓の名手はたくさんいます。なかでも資高の子、与一宗高が、小柄ですが腕は確かです」と答えた。
○「証拠はいかに」とのたまへば、「かけ鳥なんどを争(あらが)うて、三つに二つは必ず射落とす者で候ふ」。
義経が、「根拠は?」とおっしゃると、「空を飛ぶ鳥を追いかけて射落とす競争で、3羽に2羽は必ず射落とします」。
○「さらば召せ」とて召されたり。
「それではその者を呼べ」とお呼びになった。
○与一、そのころは二十ばかりの男(をのこ)なり。
与一はまだ20歳ほどであった。
…… 原文に忠実な訳ではありません ……
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平家物語の群像 那須与一④平家に見物せさせよかし
椎葉厳島神社 厳島神社を分社した神社で、那須大八郎が平家一族のために造らせたと伝わっている
平家一門が壇ノ浦で滅び、世の中がいくぶん静かになったこ頃、「平家の残党が日向の山奥にひそんで、お家再興を企てている」という噂が鎌倉に伝わってきた。
源頼朝はさっそく、那須与一に追討を命じる。
病気療養中の与一は、「私に代わって、お前が平家の残党を討て」と、弟の大八郎に申しつけて、那須家伝来の天国(あまくに)の太刀をさずけた。
兄にも劣らぬ弓の名手の大八郎は、屈強の家来を率いて日向に向かう。
大八郎は行軍中、「平家の者らは、いつまで世間を騒がせる気か」と腹を立てていたが、肥後から国境を超えて日向の山奥にはいると、人が住んでいるとはとても思えない。
馬も通らぬ険しい道が続き、聞こえるものは山鳥のさえずりと木々のささやきと谷川のせせらぎのみ。
都で贅沢三昧の暮らしをしていた人々が、今は、人跡の絶えた山中で侘しい生活をしているのかと思うと、「哀れ」という思いが込み上げてきた。
「あの辺が、平家の落人たちの住まいでございます」
土地の案内人の指差す方向に目をやると、雨露をしのぐだけの小屋がいくつか見える。
「年寄りと女子供は見逃せ。男でも手向かいせぬ者は討つな」
大八郎は家来たちに念をおした。
……
○「いかに宗高、あの扇のまん中射て、平家に見物せさせよかし」。
「どうだ宗高、扇のまん中を射通して、平家に見物させてやれ」。
○与一、畏まつて申しけるは、「射おほせ候はんことは不定(ふぢやう)に候ふ。射損じ候ひなば、長き御方(みかた)の御疵(おんきず)にて候ふべし。一定(いちぢやう)仕(つかまつ)らんずる仁に仰せつけらるべうや候ふらん」と申す。
与一は畏まって、「射通せるかどうか、分かりません。もし射そこないましたら、長く味方の御恥となりましょう。確実射通せる人に仰せつけられるのがようございましょう」と申し上げた。
○判官大きに怒つて、「鎌倉を立つて西国へおもむかん殿ばらは、義経が命を背くべからず。少しも子細を存ぜん人は、とうとうこれより帰らるべし」とぞのたまひける。
義経は激怒して、「鎌倉を立って西国へ向かう侍どもは、義経の命令に背いてはならない。少しでも不服がある者は、とっとと帰るがよい」とおっしゃった。
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平家物語の群像 那須与一⑤この若者、一定 仕り候ひぬ
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「源氏の討手(うって)が来たぞ~」
平家の落人たちが隠れ住んでいる集落に、急を告げる声が響き渡った。
戦いは2時間ほどで終わった。
谷間のあちこちに、討たれた死体がころがっている。
落人たちが身に着けている衣服は、ぼろぼろだ。
「安心いたせ。大人しくすれば男たちも許す」
大八郎が叫ぶと、物陰から数名の男たちがぞろぞろと現れた。
「危ない!」
叫び声がするや、大八郎の足元に矢が突き刺さった。
高い木の茂みに、人影が動いた。
大八郎が弓を引いて放つと、ひとりの男が樹上から落ちてきた。
「無駄な手向かいはやめよ。私は那須与一宗高の弟、大八郎宗久」
大八郎が、凛とした声で名乗った。
扇の的で名高い那須与一の名は、落人たちも知っていた。
落人たちは、戦える相手ではないことを思い知る。
…… ……
○与一、重ねて辞せば悪(あ)しかりなんとや思ひけん、「はずれんは知り候はず、御諚(ごぢやう)で候へば、つかまつてこそ見候はめ」とて、御前をまかり立ち、黒き馬の太うたくましいに小房(こぶさ)の鞦(しりがい)かけ、まろぼやすつたる鞍置いてぞ乗つたりける。
与一は、重ねて辞退するのはまずいと思ったのだろう、「外すかも知れませんが、ご命令だからやってみます」といって御前を下がり、黒い馬の太く逞しいのに小房のついた鞦をかけ、まろぼやの家紋を描いた鞍を置いて乗った。
○弓取り直し、手綱かいくり、汀(みぎは)へ向いて歩ませければ、御方のつはものども、後ろをはるかに見送つて、「この若者、一定 仕(つかまつ)り候ひぬと覚え候ふ」と申しければ、判官も頼もしげにぞ見たまひける。
弓を持ち直し手綱を操りながら海へ向かって馬を歩ませると、味方の侍たちが、「あの若者なら、きっとやり遂げるだろう」と話していたので、義経も頼もしそうに見ておられた。
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平家物語の群像 那須与一⑥舟は揺り上げ 揺り据ゑ漂へば
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死者を手厚く葬った大八郎は、いくつかの首を鎌倉に送り、「平家の残党は残らず討ち取りました。私はしばらく日向にとどまって様子をさぐります」と頼朝に書面で報告した。
「源氏方にも、こんなに心やさしい武士がいたのか」
落人たちは、大八郎に深く感謝した。
下野国の那須で育った大八郎は畑仕事にくわしく、都育ちの落人たちに焼畑の方法を教えた。
他にも、落人たちのためにいろいろ心を砕いたという。
やがて大八郎のそばに、鶴富という若くて美しい娘が仕えるようになった。
そして、いつとはなしにお互いの心が通い合うようになった。
「似合いの夫婦じゃ」
谷川のほとりや山路を寄り添って歩く二人の楽しそうな様子をみて、落人たちは心ひそかに祝福していた。
大八郎は年老いた父母と病床に臥せっている兄与一のことが気にはなったが、鶴富と別れるに忍びず、生涯を椎葉で暮らしたいと思うようになっていた。
…… ……
○矢ごろ少し遠かりければ、海へ一段(いつたん 11m)ばかりうち入れたれども、なほ扇のあはひ七段ばかりはあるらんとこそ見えたりけれ。
矢を射るには少し遠かったため、与一は馬を海へ一段ばかり乗り入れたが、それでもまだ七段ほどあるだろうと見えた。
○ころは二月十八日の、酉(とり)の刻ばかりのことなるに、をりふし北風激しくて、磯打つ波も高かりけり。舟は揺り上げ揺り据ゑ漂へば、扇も串に定まらずひらめいたり。
2月18日の午後6時ごろで、折りしも北風が激しく、磯に打ち寄せる波も高かった。舟は上下に揺れながら漂い、扇も棹の先に固定せずひらひらしている。
○沖には平家、船を一面に並べて見物す。陸(くが)には源氏、くつばみを並べてこれを見る。いづれもいづれも晴れならずといふことぞなき。
沖では平家が船を並べて、陸では源氏が馬を並べて見物している。源平双方、まことに晴れがましい情景である。
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平家物語の群像 那須与一⑦鏑矢は海中に、扇は空に舞い
那須与一、扇の的を射落とす
ついに、恐れていた日がきた。
大八郎が椎葉の里に住みついて3年ほどたったころ、「鎌倉に戻れ」という頼朝の命令が伝えられた。
その時、鶴富は大八郎の子を身ごもっていた。
後ろ髪を引かれるが、平家落人の娘を鎌倉へ連れて帰るわけにはいかない。
「女の子なら、ここで育てよ。もし男の子なら、この品を証拠として那須へ連れて参れ」
大八郎は兄・与一に貰った那須家伝来の名刀・天国と、系図を形見として鶴富に渡し、涙をのんで鎌倉に帰っていった。
「男の子が生まれますように」
鶴富は懸命に祈ったが、生まれたのは女の子。
娘が成長すると養子を迎え、大八郎を忘れかねている鶴富は、大八郎の名をとって、那須下野守宗久と名乗らせた。
椎葉村には那須姓が多く、大八郎の子孫ということを誇りにしているという。
…… ……
○与一目をふさいで、「南無八幡大菩薩、わが国の神明、日光権現、宇都宮、那須の湯泉(ゆぜん)大明神、願はくはあの扇のまん中射させて賜(た)ばせたまへ。これを射損ずるものならば、弓切り折り自害して、人に再び面を向かふべからず。今一度本国へ迎へんと思し召さば、この矢はづさせ給ふな」
目を閉じて、「南無八幡大菩薩、わが国の神々であらせられる日光権現、宇都宮と那須の湯泉大明神、どうか扇のまん中を射させて下さい。もし射損なえば弓を折って自害します。再び本国へ帰してやろうとお思いでしたら命中させて下さい」
○心の内に祈念して、目を見開いたれば、風も少し吹き弱り、扇も射よげにぞなつたりける。与一鏑(かぶら)を取つてつがひ、よつぴいてひやうど放つ。
心の中で祈り目を開けると、風が弱まり、扇も射やすそうになった。与一は鏑矢を取ってつがえ、引き絞ってひょうと放った。
○小兵といふぢやう、十二束三伏(みつぶせ)、弓は強し、浦響くほど長鳴りして、誤たず扇の要ぎは一寸ばかりを射て、ひいふつとぞ射切つたる。
小柄とはいえ、矢の長さは十二束(そく:拳12個分)三伏(ふせ:指3本分)、弓は強く、鏑矢は浦中に響くほど長く鳴り渡り、要から一寸ほどのところから射切った。
○鏑は海へ入りければ、扇は空へぞ上りける。しばしは虚空にひらめきけるが、春風に一もみ二もみもまれて、海へさつとぞ散つたりける。
鏑矢は海中に、扇は空に舞い上がって暫く空中でひらひらして、春風に一もみ二もみもまれて、海へさっと散った。
○夕日の輝いたるに、皆紅(みなぐれなゐ)の扇の日出だしたるが、白波の上に漂ひ、浮きぬ沈みぬ揺られければ、沖には平家、船ばたをたたいて感じたり。陸には源氏、箙(えびら:矢を入れる容器)を叩いてどよめきけり。
夕日が輝く中、総紅色に日の丸が描かれた扇が白波の上に漂い、浮き沈みしながら揺れていたので、沖では平家が船ばたを叩いて感嘆。陸では源氏が、箙をたたいて喝采した。
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平家物語の群像 平教経①能登殿、いたう罪な作りたまひそ
武家平家系図 クリックで拡大
平教経(国盛)は、源義経のライバルとして描かれている。
数々の合戦において抜群の武功を上げ、「王城一の強弓精兵」で、「一度の不覚も取ったことはない」。
平家の公達(きんだち)としては、珍しい存在である。
都落ちしてからは、水島の戦いや六箇度合戦、屋島の戦いなどで獅子奮迅の活躍をして義経軍を苦しめた。
最期は、壇ノ浦の戦いで暴れ回った末に、義経を追って組もうとしたが、八艘飛びでヒラリとかわされ、やむなく30人力の男ふたりを両脇に抱えて入水した。享年26。
教経は、忠盛(ただもり)の三男・教盛(のりもり)の二男。兄に通盛、弟に仲快(ちゅうかい)、業盛(なりもり 成盛)、姉妹に藤原成経の妻、教子(のりこ 能子)など。
最終官位の正五位下能登守にちなんで能登殿と呼ばれた。
…… ……
○およそ能登守教経の矢先に回る者こそなかりけれ。矢種のあるほど射尽くして、今日を最後とや思はれけん。
だれも教経の矢面に立つ者はいなかった。今日が最後と思ったか、全ての矢を使われた。
○赤地の錦の直垂に、唐綾縅の鎧着て、厳物(いかもの)作りの大太刀抜き、白柄(しらえ)の大長刀の鞘をはづし、左右に持つてなぎ回りたまふに、面合はする者ぞなき。
赤地の錦の直垂に唐綾縅の鎧を着て、厳物作りの大太刀を抜き、白木の柄の大長刀の鞘をはずし、左右それぞれの手に持って敵をなぎ倒していくので、面と向かう者がいない。
○多くの者ども討たれにけり。 多くの敵兵が討たれた。
○新中納言、使者を立てて、「能登殿(のとどの)、いたう罪な作りたまひそ。さりとてよき敵か」とのたまひければ、
知盛(とももり)が使者を遣わして、「能登殿、あまり罪を作りなさるな。そんなに立派な敵だろうか」とおっしゃったので、
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