安徳天皇を祀る赤間神宮 山口県下関市
信隆は、当時の多くの貴族がそうであったように、娘が天皇に気に入られて、女御あわよくば中宮に取り立てられることを願っていた。
白いニワトリを1000羽飼った家からは后が出ると聞くと、白いニワトリを1000羽飼った。
その甲斐があったのかどうか、娘の殖子(しょくし たねこ)は、高倉に見初められて、皇子を何人も産む。
信隆はもちろん、皇子の外祖父になって内心大喜び。
だが、清盛を恐れてか徳子に遠慮してか、あるいはその両方か、皇子たちの養育をどうするか困り果てていた。
そういう時である。
時子が、「夫と徳子のことなら、心配いりません。私が育てましょう」
乳母(めのと)をたくさんつけて、皇子たちを大切に育てた。
時子がなぜ、娘の徳子に皇子(のちの安徳天皇)が産まれているのに、将来、皇位継承のライバルになりうる殖子の子供たちを養育したのか。
信隆の妻も、清盛と時子の娘だったからという説がある。
とするならば、徳子と信隆の妻は血のつながった姉妹であり、殖子は時子の孫にあたる。
そして、徳子と殖子は、伯母(叔母)と姪の関係だ。
この二人が1~2年の間をおいて、出産するということが年齢的にありうるのだろうか。
時子は四の宮の乳母(めのと)を、時子の異父兄である法勝寺の執行能円法印の妻に頼んでいる。
当時の子供たちはみんな母方の家で育ったから、時子と能円はごく親しかったらしい。
安徳が平家一門の西走とともに都を離れたあと、三種の神器なしで皇位に就いたのはこの四の宮(後鳥羽天皇)である。
時子は、一門の都落ちまで見通していたかどうかはともかく、安徳のほかにも皇位継承の候補者を手元に置いておきたかったのだろうか。
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平家物語の群像 二位尼④時子の深謀遠慮か
平家物語の群像 二位尼⑤反平家の動き
以仁王 国史大図鑑
それからほどなく、栄華をきわめた平家の行く末に暗い影が差しはじめる。
治承4(1180)年、高倉天皇が言仁(ときひと)親王に譲位して、安徳天皇か即位した。
高倉上皇の異母兄・以仁(もちひと)王は、完全に皇位継承の望みを絶たれてしまった。
源三位頼政が以仁王に、源氏をはじめ各地の武士団に打倒平氏の挙兵を呼びかける令旨(りょうじ:命令)を出すように勧めたのは、そんな時だ。
源行家がさっそく、令旨を各地の源氏に伝達して蜂起を促す使者に名乗りを上げた。
以仁王と源頼政はまもなく鎮圧されるが、反平家の動きは燎原之火のごとく広がっていった。
貴族化していった平家に対する不満や反発が、いかに諸国に充満していたかということだろう。
そんな大きな危機に見舞われようとしている矢先、大黒柱と頼む清盛が病に倒れた。
「二十七日、前右大将宗盛卿、源氏追討のために、東国へすでに門出と聞こえしが、入道相国違例の御心地とてとどまりたまひぬ。
明くる二十八日より、重病を受けたまへりとて、京中・六波羅、「すは、しつることを」とぞささやきける。
入道相国、病つきたまひし日よりして、水をだにのどへも入れたまはず。
身の内の熱きこと火をたくがごとし」
「宗盛が源氏追討に東国に出発する予定だったが、清盛の病気のために中止になった。
翌日、病状が重くなり、京の巷では、「それ、みたことか」とささやきあった。
清盛は、病に伏してから水ものどを通らない。
体中が、火を焚いているように熱い」
平家物語は、清盛の病状をすさまじい熱病としているが、本当は何だったのか。
同時代の著名な貴族である関白九条兼実や、新古今和歌集の撰者・藤原定家らの日記からそれとなく分かる。
ではなぜ、平家物語はあえて清盛の症状を熱病ということにしたのだろうか。
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平家物語の群像 二位尼⑥兼実と定家の情報
摂政関白・九条兼実
摂政関白九条兼実に、『玉葉』という公卿日記がある。
欠損が少なく、源平争乱期の動静が客観的かつ詳細に記されていることから、研究者のあいだで最上位の史料に位置づけられているそうだ。
しかも兼実自身が最高位の貴族だから、各方面から一次情報がとどく可能性が高い。
それゆえ、情報を得るのが早くまた正確であろうと考えられている。
藤原定家クラスの中級以下の貴族になると、ともすれば世間の噂などが情報源になってしまうようだ。
また『玉葉』は、祇王の哀話や殿上乗合事件など、平家物語と同じエピソードを多く網羅しているので、事実関係の確認に欠かせない史料になっている。
たとえば、平家物語には清盛を極悪非道な人物に仕立てるため、ウソの逸話や事実を捻じ曲げている部分が少なくないということが分かってしまうのだ。
『物語』なので、それはそれで構わない。
『玉葉』は、治承5年(1181)年2月27日に、「禅門(清盛)、頭風ヲ病ムト云々」と記し、翌日には「禅門(清盛)の頭風、事ノ外増スアリ」と病状の悪化を書き留めた。
頭風とは、頭痛のことである。
熱病に関する文字は、一字たりともない。
政治家、特に大物といわれる政治家は病気をできうるかぎり外に漏らさないのは今も昔も同じだろう。
ところが、兼実は清盛の病状を書き残しているだけでなく、死の直後に、徳子と時子と宗盛に弔意を表している。
一方、藤原定家は日記『明月記』に、「臨終動熱悶絶ノ由、巷説ニ云々」と書いている。
「(清盛は)臨終には高熱をだして苦しみもがいて死んだ、と世間で噂している」と巷のうわさの紹介に過ぎないのだ。
まるっきりの未確認情報である。
ちなみに現代医学の知見をもってすると、清盛の死因はマラリア説、猩紅熱説、脳内出血説、肺炎説が考えられるという。
やっと二位尼に戻ってきた。
平家物語によると、清盛の臨終のとき、妻時子は身も心も凍るような怖ろしい夢を見た。
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平家物語の群像 二位尼⑦清盛、無間地獄へ
無間地獄(最も恐ろしい地獄)
〇入道相国の北の方二位殿の、夢に見たまひけることこそ恐ろしけれ。
二位尼が夢に見たのは、実に恐ろしいものだった。
〇猛火のおびたたしく燃えたる車を、門の内へやり入れたり。前後に立ちたる者は、あるいは馬の面(おもて)のやうなる者もあり。あるいは牛の面のやうなる者もあり。
猛火が燃え上がった車を、門の中に引き入れた。車の前後に立っているのは、それぞれ馬と牛の顔をした者である。
〇車の前には、「無」といふ文字ばかり見えたる鉄の札をぞ立てたりける。二位殿夢の心に、
「あれはいづくよりぞ」と御尋ねあれば、「閻魔の庁とり、平家太政入道殿の御迎ひに参つて候ふ」と申す。
車の前には「無」という文字だけが見える鉄の札が立ててある。二位尼が夢の中で、「その車はどこから来たのか」と尋ねると、「閻魔庁から清盛殿を迎えに来た」と言う。
〇「さてその札は何といふ札ぞ」と問はせたまへば、「南閻浮提金銅(なんえんぶだいこんどう)十六丈の盧遮那物(るしやなぶつ)、焼き滅ぼしたまへる罪によつて、無間(むけん)の底に堕したまふべき由、閻魔の庁に御定め候ふが、無間の無を書かれて、間の字をばいまだ書かれぬなり」とぞ申しける
「その札は何の札か」と尋ねると、「東大寺の大仏を焼いた罪で無間地獄に落とすと決めているが、無間の「無」だけを書いて、まだ「間」の字を書いていない」と言う。
〇二位殿うちおどろき、汗水になり、これを人々に語りたまへば、聞く人皆身の毛よだちけり。
二位尼は、はっとして夢から醒めると汗びっしょり。夢の話を人々にすると、みんな身の毛がよだつ思いをした。
…… (敬語の訳出は冗長になるから略しています) ……
時子の悪夢は、平家物語お得意の創作であろう。
何を言いたいのだろうか。
夢の眼目は、「南閻浮提金銅十六丈の盧遮那物、焼き滅ぼしたまへる罪によつて、無間の底に堕したまふべき由、閻魔の庁に御定め候ふ」にあると思う。
つまり、閻魔大王が、大仏を焼いた罪で清盛を地獄の中でも最も恐ろしい無間地獄に落とすことに決めた、ということだ。
史上初めて大仏を猛火で包んだ清盛は、まれにみる極悪人。
(平家物語の作者は、)無間地獄に落とすだけでは足りない。
清盛がまだ生きているうちに、尊い大仏が苦しんだのと同じ苦しみに遭わせてやりたい。
体中が火を噴きそうなほどの高熱で、苦しませてやりたい。
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平家物語の群像 二位尼⑧清盛は仏敵か
平等院:この世の西方極楽浄土
そうした作者の清盛に対する憎悪が、清盛は熱病で悶絶死したと書かせたのではないか。
無間地獄に落とす前に、現世で、仏敵清盛に焦熱地獄を存分に味わわせてやりたかったのだろう。
ただし、清盛は南都に総大将として派遣した末子重衡に、東大寺と興福寺に火を放て、と命じてはいない。
戦火が、たまたま東大寺や興福寺方面へ吹く強い風に乗って、大仏などを襲ったとも言われる。
清盛は厳島神社に平家納経をおさめているし、日頃の仏事供養もなおざりにはしていないようだ。
後世、比叡山を焼き討ちにしたり一向一揆の勢力を根絶やしにしようとしたりした織田信長のような、破壊的な革命的価値観の持ち主ではないだろう。
平家物語は、琵琶法師の弾き語りで広く流布した作品であり、そもそも仏教説話的な要素が色濃い。
祇王や祇女、仏御前たちは若くして髪をおろして出家、西方浄土に往生するために朝夕、念仏を唱えた。
平家物語がこしらえた、理想的な生活なのだろう。
九条兼実も、浄土宗の開祖法然上人に帰依している。
庶民代表といえる白拍子から摂政関白まで、ひたすら極楽浄土を希求しているのだ。
そんな社会風潮の中、清盛にその意図があったかどうかはともかく、結果的に大仏を焼いてしまった。
この事実が、清盛を悪者にするために史実を歪曲したり、逸話をこしらえたりした最大の理由ではないだろうか。
時子は耐えられないほど熱かったが、熱病で苦しんでいる清盛の枕辺に寄って、涙ながらに尋ねた。
○御ありさま見奉(たてまつ)るに、日に添へて頼み少なうこそ見えさせたまへ。この世におぼし召し置くことあらば、少し物の覚えさせたまふ時、仰せ置け
日増しに、ご回復の望みは少なくなっていくようです。
もし何か言い残すことがあれば、少しでも御気分のいい時におっしゃって下さい。
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平家物語の群像 二位尼⑨伊豆の流人、前兵衛佐頼朝
伝源頼朝坐像 鎌倉鶴岡八幡宮に伝来 東京国立博物館所蔵
○入道相国、さしも日頃はゆゆしげにおはせしかども、誠に苦しげにて、息の下にのたまひけるは、「われ、保元・平治よりこのかた、度々の朝敵を平らげ、勧賞(けんじやう)身に余り、かたじけなくも帝祖・太政大臣に至り、栄華子孫に及ぶ。
日ごろは豪気な清盛が息も絶え絶えに、「私は保元・平治の乱以来、たびたび朝敵を平らげ恩賞は身に余るほど。
畏れ多くも安徳天皇の外祖父となり、太政大臣に上った。栄華は子孫にも及んでいる。
○今生の望み一事も残るところなし。
この世に何一つ、思い残すことはない。
○ただし思ひ置くこととては、伊豆の流人、前兵衛佐(さきのひやうゑのすけ)頼朝が首を見ざりつるこそ安からね。
ただ、伊豆に流した源頼朝の首を見なかったのが心残りだ。
○われいかにもなりなんのちは、堂塔をも建て、孝養をもすべからず。
死後、仏塔を建てなくていい、仏事供養の必要もない。
○やがて討手を遣はし、頼朝が首をはねて、わが墓の前に掛くべし。
すぐに打手を送って、頼朝の首をはね私の墓前に供えよ。
○それぞ孝養にてあらんずる」とのたまひけるこそ罪深けれ。
それこそが供養だ」と仰ったのは、誠に罪深いことであった。
……(一語一語を忠実に訳してはいません)……
以上、清盛が長年連れ添った妻・時子に語った遺言である。
フィクションであろう。
清盛最後の望みは、頼朝の首をとって自分の墓前に供えよというものだ。
鎌倉時代に書かれた平家物語の作者は、頼朝が平家を倒して幕府を樹立したことを知っているが、清盛は知らない。
清盛が亡くなったのはまだまだ平家全盛のころ。
死ぬ間際に、伊豆に流した源氏の若造が「墓前に供えよ」というほど気にかかっていたということはあるまい。
仏塔を建てるな仏事供養をする必要もない、とも言い残した。
これは、南都焼き討ち事件と呼応する。
清盛には最後まで仏心がなかった、と言いたいのだろう。
だから、諸行無常の響きとともに平家は滅び去った、と。
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平家物語の群像 二位尼⑩重衡からの手紙
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清盛亡きあと、平家一門の繁栄は夕陽が西の空に沈んでゆくがごとく、目に見えて輝きを失っていく。
もちろん、時の勢いというものがあろう。
だが、もう一つ見逃せないのはリーダー不在ということではないだろうか。
保元・平治の乱で目覚ましい活躍をした嫡男の重盛はすでになく、平家の繁栄を築きあげた清盛が幽明境を異にした今、総帥は二位尼の第一子ではあるが、凡庸な宗盛である。
妻子思いのエピソードがある一方、とても将器とは思えない逸話がいくつか残っている。
源平の棟梁同士である源頼朝とからむ逸話から。
ある意味、源平の戦いは平宗盛vs源頼朝ということになる。
『吾妻鏡(あづまかがみ 鎌倉幕府の歴史書)』によると、
頼朝は壇ノ浦の戦いの直前、弟の範頼に宛てた手紙のなかで、「内府(内大臣:宗盛)は極めて臆病におはせる人なれば、自害などはよもせられじ」と記している。
壇ノ浦で生け捕りにされて鎌倉に護送された時には、食事もとらずに泣いてばかり。
頼朝と対面した時には出家するからと助命を求め、居合わせた者らから、「これが清盛の息子か」と嘲笑された。
二位尼は、そんな宗盛の決定に従って安徳天皇や中宮徳子とともに、都を離れて西国へ向かった。
いわゆる平家の都落ちである。
中国から九州へと西走するが、いったん勢力を盛り返して一の谷に陣を敷いた。
だが、軍事天才義経の「鵯越の逆落とし」などによって惨敗。
一門の多くが戦死、二位尼最愛の息子重衡は捕えられた。
重衡は都に連れ戻され、捕虜として都中を引き回される。
その噂を、母は耳にした。
ほどなく、「重衡を助けてやるから、三種の神器を返せ」という後白河法皇からの院宣がとどく。
使者は、二位尼あての重衡の手紙も持参していた。
「重衡を、今生で今一度御覧ぜんと思し召され候はば、三種の神器の御事を、よき様に申させ給ひて、都へ返し入れさせ給へ。さらずば、御目にかかるべしとも存じ候はず」
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平家物語の群像 二位尼⑪重衡と三種の神器
平宗盛 御物 『 天子摂関御影 』より
「母上、重衡(しげひら)に今一度、会いたいとお思いなら、三種の神器返還のことを兄上(宗盛)によろしくお伝え下さい。そうでないと、再び、お目にかかることができません」
二位尼は、重衡からの手紙を顔に押し当てて、一門の者たちが揃っている部屋の後ろの障子を開けると、宗盛の前に倒れこんだ。
涙ながらにいう。
「宗盛殿、この手紙をごらん。かわいそうに、重衡は今ごろ、どんな気持ちでいることでしょう。どうかこの母に免じて、三種の神器を都へ返しておくれ」
平家一門の置かれている状況が目に入らなくなっている、ただただわが子を思う母親の切羽詰まった心情である。
宗盛は、母の頼みを聞き入れなかった。
「母上、兄としては私もそうしたいのは山々です。しかし、三種の神器を、重衡ひとりに替えることは出来ません。安徳天皇が帝位にあるのも、三種の神器がこちらにあるからです」
もし、三種の神器を返せば、天皇としての正当性が失われてしまいます。
「それに、一門すべての者たちを、重衡ただひとりに替えてよいものでしょうか。子供かわいさに引きずられるのも、時と場合によりましょう」
二位尼は、清盛亡き後の心境を訴える。
「清盛殿に先立たれたとき、私も死のうと思いました。しかし、まだ幼い安徳天皇があてのない旅にでられた哀れさを思い、またお前たちにもう一度、あの栄華を見させてやりたいと思って、こうして生き長らえてきたのです」
「重衡が一の谷で生け捕りにされたと聞いてからというもの、魂が抜けてしまって、食事がのどを通りません。あの子がこの世にいなくなれば、私も同じ道をたどります」
「返還しないのなら、何も言わずに、私を殺しておくれ」
二位尼が叫ぶように哀願すると、その痛々しさに、一同、みな目を伏せてしまった。
思慮深い三男の知盛(とももり)の言葉が、結論になった。
「たとえ三種の神器を返しても、重衡を返してはくれますまい」
二位尼は悲嘆の涙に暮れながら、やっとの思いで重衡への手紙を書くと、都からの使者に持たせてやった。
重衡の北の方・大納言佐殿(すけどの)は、ずっと押し黙っていたが、衣服をかぶって伏してしまった。
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平家物語の群像 二位尼⑫波の底にも都がございますぞ
安徳天皇入水の地 ○今ぞ知る みもすそ川の 御流れ 波の下にも 都ありとは 二位尼辞世の歌
屋島ではわが子いとしさに取り乱した二位尼は、ここ壇ノ浦では一代の英傑清盛の妻らしく、決然とした姿で登場する。
彼女は孫の安徳天皇や娘の中宮徳子らとともに、味方の船に守られて御座船に乗っていた。
そこへ、総大将の三男知盛が、小さな船でやって来た。
海戦を得意とする平家は緒戦こそ有利に戦っていたが、潮の流れが変わったり裏切り者が出たりして戦況は逆転。
今や義経軍に追い詰められて、敗色濃厚という。
「見苦しいものは、すべて取り清め給え」
女房らに指示すると、自ら率先して船内の整理を始めた。
女房らが、「中納言(知盛)様、いくさの様子は」と尋ねると、
「ただいま、珍しい東男(あづまおとこ)をご覧に入れましょう」
からからと笑った。
「まぁ、こんな時に、お戯れを」
女房たちは、悲鳴のような叫び声を上げた。
二位尼は、すでに覚悟をきめている。
喪服を身にまとって勾玉を脇に抱え、草薙の剣を腰にさし、八歳になる安徳を抱き上げた。
「われは女なれど、敵の手にはかかるまじ。帝のお供にまいるなり。御こころざし思ひまいらせ給はん人々は、急ぎ続きたまへ」
船端へ歩み出た。
安徳が驚いた様子で、「尼ぜ、われをばいづちへ具して行かんとするぞ」
「あの波の下に、極楽浄土という素晴らしい都があります。そこへ、お連れして参ります」
安徳は小さな手を合わせて、まず東へ向かって伊勢神宮を拝み、それから西の空へ向かって念仏を唱えた。
「浪のしたにも都のさぶらふぞ」
二位尼は安徳を抱いたまま、海に向かって身をひるがえした。
千尋(深い深い)の海の底へ、ふたりの身体はゆっくりゆっくり沈んでいく。
★安徳天皇を抱いて入水したのは祖母の二位尼時子、なぜ母親の中宮徳子ではなかったのだろうか。
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平家物語の群像 平重盛①『平家』が創造した、実在の人物
平重盛 小松殿 灯篭大臣
『平家物語』によると、清盛の嫡男である重盛は温厚にして徳性きわめて高く、また武勇にも学識にもすぐれた、非の打ちどころのない人物である。
一門がまだ得意の絶頂にあったころ、早くも平家の滅亡を自覚した預言者でもあった。
矛盾する言い回しになるが、重盛は、男たる者の理想はかくあるべしと『平家』が創造した、実在の人物である。
なぜ、そんなことになるのか。
前提として、物語中の重盛のみならず歴史上の重盛も、おそらく文武両道にすこぶる秀でた人物だったのだろう。
そして、なによりも肝心なことは、『平家』の作者が、物語中の重盛の言葉を通して、自分自身の意見や思想を表現しようとしたのではないかということだ。
重盛の発言の多くはそのまま作者の考えと解釈しても、それほど的外れではあるまい。
また、重盛の人となりを理想化したのは、物語を分かりやすくまた面白くするためでもあったのではないだろうか。
言い換えれば、聴き手(『平家』はもともと琵琶法師による弾き語り)や、読み手の関心をつなぎ留めるために、歴史的事実よりも文学的虚構を優先させたのだろう。
つまり、多くの人々に興味を持続してもらうための効果的な手法として、「善」と「悪」をくっきりと対比させながら、物語を書きすすめたのではないだろうか。
清盛はたいてい横暴な「悪人」であり、重盛はいつも思慮深い「善人」である。
その分かりやすい構図を、歴史的事実に優先させた。
『平家物語』は文字通り『物語』であって、『歴史書』ではない。
面白ければ、それで一向に構わないわけだ。
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平家物語の群像 平重盛②殿下乗合事件
殿下乗合(てんがのりあい)事件
平清盛の孫にして重盛の次男、当時13歳の資盛(すけもり)が、10代の若い侍ばかりを連れて、鷹狩りに出かけた。
その帰り道、大炊御門(おおいのみかど)通りと猪熊(いのくま)通りの交差点で、参内(さんだい:宮中に参上すること)途中の摂政・藤原基房(もとふさ)の行列と鉢合わせになった。
当時、格下の資盛が馬を下りて、下馬の礼をとるのが習わしである。
だが、若い彼らは、基房の家来たちが、「何者ぞ、馬より降りよ、降りよ」と言うのも聞かず、平家一門の威光を笠に着て、行列を通り抜けようとした。
無礼に怒った基房の家来たちは、薄暗いこともあって、相手が清盛の孫とは気づかず、あるいは気づかぬ振りをして、資盛たちを馬から引きずり降ろして、辱めた。
六波羅に逃げ帰った資盛に泣きつかれた清盛は激怒。
「たとえ摂政殿下でも、清盛の身内なら遠慮すべきものだ。幼い資盛に恥辱を与えるとは。思い知らせてやる」
さっそく、基房の屋敷に兵を差し向けようとした。
このことを聞いた重盛が、清盛邸に駆けつけて来た。
「相手が頼政などの源氏の連中であれば、わが平家一門の恥でしょう。今度の場合、摂政殿下の前で、下馬の礼を取らなかった資盛たちの方に非があります」
資盛の供をした若い侍たちには、「無礼を働いたこと、私から基房公にお詫びしておく」と言い聞かせて帰らせた。
しかし、清盛の怒りは収まらない。
わが息子ながら、その聖人君子ぶりが苦手な重盛には黙って、60人ほどの侍を集めた。
「21日に、基房公が外出される。どこでもよいから待ち伏せして、従者どもの元結い(髪の毛)を切って、資盛の恥をそそげ」
荒くれどもは、しかと承知して下がっていった。
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平家物語の群像 平重盛③平家悪行のはじめ
清盛の命を受けた5日後の10月21日、300名あまりの侍(さむらい)が、完全武装で摂政基房の行列を待ち構えていた。
一行がやって来ると、従者たちを引き倒してさんざん暴行を加えた上、元結いを切りおとすという侮辱をはたらいた。
さらに、基房の牛車に矢を放ったり簾(すだれ)をひきちぎったり乱暴の限りを尽くして、六波羅に引き揚げて行った。
報告を受けた清盛は、「神妙(しんびょう)なり (よくやった)」と満足げな様子だったという。
藤原氏繁栄の基礎をきずいた鎌足や不比等はいうにおよばず、藤原良房、基経よりこのかた、摂政関白がこのような屈辱を受けたのは、いうまでもなく初めてのことであった。
これこそ、「平家悪行のはじめ」であった。
思ってもいなかった破廉恥な暴力事件を聞いて、心底、驚いたのは小松殿(重盛)。
摂政の基房を襲うとは不敬であり、重盛はひどく恐縮した。
基房一行に乱暴狼藉をはたらいた侍らを、厳しく叱りつけて追放した。
「たとえ父上がいかなる命令を下そうとも、どうして私に知らせなかったのか。およそ資盛こそ、恥知らずである」
栴檀(せんだん)は双葉(ふたば)より芳(かんば)し、という。
すぐれた者は、幼いときからその兆候がある。
「12、13歳にもなる資盛よ、お前が礼儀をわきまえるべきだったのに、とんでもない無礼を働いて父上(清盛)の悪名を立てるとは、不考の至りである。罪は、お前ひとりにある」
資盛を叱責し、父祖の地である伊勢での謹慎を命じた。
世間の人々は、こうした重盛の振る舞いに大いに感心した。
以上は、古典文学中の名作『平家物語』による。
次回は、一等史料といわれる関白九条兼実の日記、『玉葉』の記事を紹介したい。
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平家物語の群像 平重盛④玉葉と愚管抄
九条兼実(藤原基房の異母弟)
7月3日、摂政・藤原基房は、岡崎にあった法勝寺の法華八講に参るところであった。
基房の行列は、女車(宮中の女房などが乗る牛車)に乗った平資盛と鉢合わせした。
なにか、資盛に無礼があったのだろうか。
基房の舎人(とねり:護衛役の下級官吏)や居飼(いかい:牛馬の世話役)らが、資盛の車を襲って乱暴狼藉におよんだ。
だが、恥辱を与えた相手が重盛の次男の資盛と知ったとき、基房は震え上がった。
基房は屋敷に帰るとすぐに謝罪の使者を遣わして、舎人や居飼らを引き渡すべく申しでるが、激怒した重盛はそれを拒否。
報復を恐れた基房は、騒ぎをおこした従者たちに暇を与え、首謀者の身柄を検非違使に引き渡すなど、誠意を見せて重盛の怒りを解こうとした。
だが、怒りの収まらない重盛は侍を集めて報復の準備をする。
これを知った基房は、恐怖のあまり屋敷に引きこもって、参内(さんだい:宮中に参上すること)すらしなくなった。
3か月も外出を控えていたが、摂政として、朝廷の儀式を欠席するわけにはいかない。
10月21日、高倉天皇元服の儀式の打ち合わせために参内するところであった。
基房の一行を、何者かが襲撃する。
前駈5人が馬から引きずり落とされ、4人が髻(もとどり:頭髪を束ねたもの)を切られた。
基房は参内を中止せざるを得ず、高倉の元服の儀式は延期になった。
以上、『玉葉』から …… ……
『平家物語』とは話の筋立ても、重盛の性格もずいぶん違う。
文脈から「黒幕は重盛」ということが分かるが、兼実は、基房一行を襲った連中が重盛の手の者とは書いていない。
異母兄の基房同様、やはり重盛が怖かったのだろうか。
ちなみに、兼実は源頼朝とは良好な関係にあるが、平家一門とは疎遠だった。
兼実の同母弟である天台座主・慈円が、『愚管抄』の中で、「小松内府(重盛)は不可思議の事を一つしたり」と、重盛が襲撃させたと指摘している。
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平家物語の群像 義仲①頼朝兄弟は父の仇
源(木曽)義仲
義仲は、河内(かわち;大阪府の東部周辺)源氏の一門で、源義賢(よしかた)の次男。
幼名は駒王丸(こまおうまる) 、母は遊女という。
出生地は、武蔵国の大蔵館(現:埼玉県比企郡嵐山町)か上野国(こうずけのくに)多胡郡(群馬県多野郡)。
同じ河内源氏の頼朝や義経らはイトコにあたる。
祖父は、ともに源為義(ためよし)。
為義の長男が頼朝らの父・義朝、次男が義仲の父・義賢。
義朝の長男・義平(よしひら 通称、鎌倉悪源太)が、叔父である義賢を討った。
まさに血で血を洗う骨肉の争いである。
領地の奪いあいとも、本家をどちらが継ぐかの争いだったともいわれる。
2歳の駒王丸は母とともに木曽に逃れ、乳母(めのと)の父である中原兼遠(かねとお)の養育を受けた。
のちに元服して、木曽次郎源義仲を名乗る。
坂東(関東地方)生まれの義仲が、木曽義仲と呼ばれる所以である。
河内源氏の系譜
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平家物語の群像 義仲②以仁王の乱
以仁王(もちひとおう 高倉宮)
諏訪大社に伝わる伝承では、木曽義仲は下社の宮司である金刺盛澄(かなさしもりずみ)に預けられて修行している。
のちに盛澄の弟・手塚光盛などの金刺一族が、挙兵当初から中原一族と並ぶ義仲の腹心となっている。
治承4(1180)年2月、高倉天皇が清盛の孫にあたる言仁親王に譲位、安徳天皇となる。
同年5月、皇位への望みを絶たれた以仁王が、源頼政(よりまさ)と図って、打倒平家のための挙兵を計画。
諸国の源氏などの武士団や、大寺社に蜂起を促す令旨(りょうじ;命令)を発した。
令旨の内容は、以仁王が自らを壬申の乱の天武天皇になぞらえ、皇位をだまし取った平家を討って、自分が皇位に就くべきことを宣言するもの。
義仲の叔父・源行家が、諸国の源氏に挙兵を呼びかけた。
だが、すぐに露見。
以仁王と頼政は宇治平等院の戦いで敗死、平家によって早々に鎮圧された。
義仲の兄の仲家も、頼政とともに平等院で討死している。
しかし、以仁王の令旨を契機に、諸国の反平氏勢力が挙兵。
全国的な動乱である治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)が始まる。
義仲は都から逃れてきた以仁王の遺児を、北陸宮(ほくろくのみや)として庇護。
木曽軍の「錦の御旗」として挙兵した。
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