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平家物語の群像 重衡被斬①重衡、奈良興福寺へ

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$吉備路残照△古代ロマン-平重衡 平重衡


重衡(しげひら)は頼朝と対面したあと、伊豆国の狩野宗茂に預けられていた。

…… …… 平重衡⑰重衡、頼朝と対面

ほどなく、かつて南都焼き討ちにあった奈良・興福寺の大衆(だいしゅ:衆徒)が、しきりに重衡の身柄を要求してくる。

       平重衡④南都攻めの大将軍は頭中将

頼朝はやむなく、源頼政の次男・頼兼(よりかね)を護送につけて、重衡を興福寺に引き渡すことにした。

重衡は罪人ゆえに都の中へ入れず、大津から山科・醍醐を経由する。

醍醐から、日野は近い。

日野には、その頃、重衡の北の方・藤原輔子(ほし/すけこ)が住んでいた。

輔子はかつて安徳天皇の乳母(めのと)で、大納言典侍局(だいなごんのすけ)と称していた。

壇の浦で入水したが、建礼門院とともに捕らえられて京へ戻され、その後、姉の成子(しげこ)とともに日野でひっそりと過ごしている。

そんな時、「重衡の露の命は、草葉の先にひっかかって、まだ消えていない」という噂を耳にして、「もう一度、姿を見たい」と日々願っていたが、叶うはずもなく悲しみに明け暮れていた。


重衡は、護衛の頼兼に頼んだ。

「鎌倉からずっと親身に世話を焼いてくれたこと、とても感謝している。ついては、もう一つお願いしたい。私には子がなく、この世に思い残すことはないが、長年連れ添っていたが日野にいる。後世のことを話しておきたい。どうだろうか」

鎌倉武士とて、木石(ぼくせき:情を解さない)ではない。

「北の方に会われることに何の問題がありましょう。さあ、すぐにでも」

重衡は喜んで使いを出した。

一軒の家に声をかけた。

大納言典侍殿は、こちらにおられるのでしょうか。重衡殿が奈良に向かう途中でお通りになります。お目にかかりたいと言っておられます」

思わぬことに驚いた大納言典侍が、「どこに、どこに」と走り出ると、藍摺の直垂に折烏帽子を着て、縁に寄りかかっている痩せ黒ずんだ男がいた。

重衡であった。

「夢かうつつか。どうぞ、どうぞ、こちらへ」

お互い声を聞くにつけても、先立つものはただ涙。

「西国で最期を遂げるはずが、生きながら囚われて京・鎌倉と恥を晒した。挙げ句の果てに興福寺の大衆に引き渡されて斬られることになり、奈良へ向かう途中なのだ。是非もう一度顔を見たいと思っていた。もうこの世に未練はない」

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久しぶりに映画に堪能しました。


平家物語の群像 重衡被斬i②今生の別れ

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$吉備路残照△古代ロマン-大納言典侍  大納言典侍 (だいなごんのすけ 藤原輔子)

重衡は、「出家して髪を形見にとも思ったが、もはやそれもできない」というなり、額の髪の毛を下に垂らして口にかかった部分を歯で切り、「これを形見に」と渡した。

すると、大納言典侍は思いが込み上げてうつ伏してしまう。

ややあって、涙をこらえて言った。

二位尼殿や小宰相殿(平通盛の妻)のように、壇ノ浦の波の底へ沈むべきでしたが、あなた様にもう一度お会いしたくて生き永らえてきました。それも、今日が最後なのですね」

そして、「お姿がやつれて見えます。着替えなさいませ」と、裏地のついた衣の小袖に白衣を添えて渡した。

重衡は着替えながら、脱いだ装束を、「これも形見に」

大納言典侍は、奥の部屋から硯(すずり)をもって来た。

「装束も頂きますが、筆の跡が後々までの形見になります」

重衡は、泣きながら和歌を一首したためた。

 ○せきかねて 涙のかかる から衣

      後の形見に 脱ぎぞ替えぬる

あふれる涙が衣にかかって濡れてしまったが、死後の形見に衣を脱ぎかえてあなたに託します

大納言典侍の返歌。

 ○ぬぎかふる 衣も今は 何かせむ

      今日を限りの 形見と思へば

脱ぎ替えた衣も今は何の役にも立ちません。今日限りの形見と思うと

重衡が、意を決したように立ち上がった。

「来世、また一緒になろう」

大納言典侍が、夫の袂(たもと)に取りすがる。

「どうか、もうしばらく」

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ちょっぴり恥ずかしく思いつつ、昨日、『前田敦子はキリストを超えた:〈宗教〉としてのAKB48』を買い求めました。

筆者はどういう意味で、前田がキリストを「超えた」と主張しているのか。

AKB48のどこが、宗教性を帯びているというのか。

おいちゃんたちが前田敦子AKB48を熱く語ったり論じ合ったりしている内容は、いうまでもなく彼女とグループの歌唱力やダンスについてではありません。

あっちゃんの「人間性」とAKB48という「組織あるいは仕組み」に関心が向いているのです。

場合によっては、平成のアイドルを『平家物語の群像』の番外編として載せてみようかと思っています。

明けまして おめでとう ございます 平成25年 元旦

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$吉備路残照△古代ロマン-岡山後楽園  
丹頂鶴の憩う後楽園から岡山城を望む



初春のお慶びを申し上げます


旧年中はいろいろお世話になりました。

2013年が皆さまにとって良い年でありますように






本年もよろしくお願い申し上げます


                               平成25年 元旦

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平家物語の群像 対立⑤梶原景時の讒言

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$吉備路残照△古代ロマン-鎌倉駅  鎌倉駅 神奈川県


5月23日、義経は鎌倉へ到着するが、ひと足早く梶原景時が着いて頼朝に告げ口していた。

「今や、日本国中の人々が殿に従っております。ただ、弟君の義経殿が最後の敵となるように思われます。なぜかと申しますと、一事が万事ですが、弟君がいわれました」

『一の谷は、この義経が上の山から落とさなかったら東西の木戸口は破れなかっただろう。だから、生け捕りも死に捕りもまず義経に見せるべきだ』

『何の働きもなかった兄・範頼殿に先に見せる法があるか。平重衡殿を速やかに引き渡して頂きたい。こちらから引き取りに参ろうか』

      平重衡③腹を切らんとし給ふ所に

あわや戦いになろうとしていたのを、私と土肥実平が心を合わせて、重衡殿を実平のもとに預け置いたので争いは鎮まったのです」

頼朝は頷いて、「義経が今日ここへ来るだろう。各自、用意するように」と言うと、関東八か国の大名小名が駆けつけ、たちどころに数千騎が集まった。

頼朝は軍兵を七重八重に据え、その中心に陣どった。

義経はすばしっこい男だから、畳の下から這い出てくるかも知れない。だが、そうはさせん」

頼朝は金洗沢(かねあらいざわ)に関を設け、宗盛清宗父子の身柄を預かり、そこから義経だけを腰越へ追い返した。

義経には、理由が分からなかった。

「一体、どういうことなのだ。去年の春、木曽義仲を追討して、今年の春は平家を滅ぼし、八咫鏡八尺瓊曲玉を朝廷に返還し、その上、平家一門の棟梁の宗盛殿を生け捕りにして、鎌倉まで下ってきたのだ」

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今日は関西弁によるお勉強のようです。

平家物語の群像 重衡被斬③会うべきではなかった

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$吉備路残照△古代ロマン-平重衡の墓  従三位平重衡卿墓 
京都伏見区醍醐外山街道町

に引き止められると、重衡は、

「私もゆっくりしたい。だが、私は天寿を全うできる身ではないのだ」

後ろ髪を断ち切って出発した。

大納言典侍が門の外に転び出て、声を限りに泣き叫ぶ。

殺されるために出かける夫を見送る妻の心情はいかばかりか。

重衡も涙で目が曇って前が見えない。

「やはり、会うべきではなかった」

後悔ばかりが募った。


興福寺の大衆は重衡の身柄を受けとると、処分について評議した。

重衡殿は重罪人だ」、「仏敵である」、「東大寺と興福寺の周囲を引き回した上で、首まで地中に埋めるか、首をのこぎりで引くべきだ」

老僧たちが、たしなめた。

「そのような手荒なことは僧のすべきことではない。武士に任せて、木津の辺りで斬らせよう」

武士たちは重衡を預かって、木津川へ連行した。

大衆や武士らを含めて、高みの見物は何千、何万か数も知れない。

そこへ重衡に仕えていた知時(ともとき)という者が、主の最期を見届けようと馬に鞭打って駆けつけた。

急いで馬から飛び下りる。

群衆を掻き分けながら、重衡のそば近くに寄った。

「殿の最期を、知時が看取りに参りました」


★これから、漱石先生ゆかりの「日本最古の温泉(愛媛の道後)」に出かけます。
 他にも、ウチこそ「最古」と譲らない古湯(兵庫の有馬・和歌山の白浜)があるようです。

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平家物語の群像 重衡④西方浄土への導き

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$吉備路残照△古代ロマン-阿弥陀二十五菩薩来迎図
国宝 阿弥陀二十五菩薩来迎図(早来迎/はやらいごう)  京都・知恩院

知時の気持ち、ありがたく思う。ところで、できうることならば仏を拝みながら旅立ちたいのだが……」

重衡が願いを述べると、知時は請け合った。

「承知しました。仏像を探して来ましょう」

知時は、警護の武士と相談して近くの里から仏像を借りてきた。

幸い、阿弥陀如来である。

河原の砂の上に据えた。

知時は狩衣(かりぎぬ)の袖の括りひもを解くと、紐の一方を如来の御手に掛け、もう一方を重衡に持たせた。

重衡は紐を手にして、阿弥陀如来に語りかける。

「その昔、堤婆達多(だいばだった)が、三逆の罪(阿羅漢を殺す 仏の体を傷つけて出血させる 教団を分裂させる)を犯し、無数の経典を焼き滅ぼしながら、そのことがかえって仏門に入るきっかけとなり、尊い教えに導かれて、ついには釈尊によって天王如来になることを認められたと聞きます」

「南都を焼き討ちした私の行為は、まことに罪深いものです。だが、本意ではありませんでした。だれが、父の命令に背けるでしょうか。だれが、勅命に逆らえるでしょうか」

「釈尊は全てご存じです。罪業はたちまち報いとなり、わが運命はもはや風前の灯です」

「仏法は慈悲を第一とするゆえに、衆生を救う機縁は様々といいます。最後の念仏によって、どうか極楽往生を遂げさせて下さい」

語り終えると、重衡はゆっくりと首を伸ばした。


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平家物語の群像 重衡被斬i②今生の別れ

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$吉備路残照△古代ロマン-大納言典侍  大納言典侍 (だいなごんのすけ 藤原輔子)

重衡は、「出家して髪を形見にとも思ったが、もはやそれもできない」というなり、額の髪の毛を下に垂らして口にかかった部分を歯で切り、「これを形見に」と渡した。

すると、大納言典侍は思いが込み上げてうつ伏してしまう。

ややあって、涙をこらえて言った。

二位尼殿や小宰相殿(平通盛の妻)のように、壇ノ浦の波の底へ沈むべきでしたが、あなた様にもう一度お会いしたくて生き永らえてきました。それも、今日が最後なのですね」

そして、「お姿がやつれて見えます。着替えなさいませ」と、裏地のついた衣の小袖に白衣を添えて渡した。

重衡は着替えながら、脱いだ装束を、「これも形見に」

大納言典侍は、奥の部屋から硯(すずり)をもって来た。

「装束も頂きますが、筆の跡が後々までの形見になります」

重衡は、泣きながら和歌を一首したためた。

 ○せきかねて 涙のかかる から衣

      後の形見に 脱ぎぞ替えぬる

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平家物語の群像 大地震①元暦2年(1185)7月9日

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$吉備路残照△古代ロマン-元暦の大地震 元暦(げんりゃく)の大地震
……鴨長明の『方丈記』にも記述


平家が滅んで源氏の世になると、国々は国司の命令を聞き、荘園は領主に従うようになった。

だが、長かった源平の戦乱が収まって身分の上下なく安堵していた矢先の元暦2年(1185)7月9日の正午頃、大地が激しく揺れ動いた。

白河周辺では、六カ寺からなる六勝寺はことごとく崩壊する。

六勝寺の一つである法勝寺の九重の塔は、上の六層が崩れ落ちた。

得長寿院(とくちょうじゅいん) の三十三間の御堂は、十七間まで倒れた。 

御所や神社仏閣の大建築から、粗末な民家に至るまで軒並み崩壊した。

大きな建物が崩れ落ちる音はさながら雷のように遠くまで轟き、天に舞い上がる塵はまるで煙のようである。

上空は塵に覆われて暗くなり、日の光も見えない。

老若男女、みなが肝をつぶした。

朝廷に仕える者も民衆も、生れて初めて経験する天変地異に気も失わんばかりであった。

山肌が崩れ落ちて川を土砂で埋め、海では津波が押し寄せて浜辺を侵し人家をつぶした。

沖合を漕ぐ舟は大波に前後左右に大きく揺さぶられ、陸路を行く馬は脚をとられて前に進めない。

地面が裂けて至る所から水が噴き出し、岩肌は崩れて大小の岩が谷底へ転げ落ちた。

土手が決壊して川の水が一気にあふれたら、高台にあわてて逃れても助からないだろう。

猛火が迫ったら、もはや逃げようがない。

鳥ではないので空を飛ぶこともできず、龍ではないので雲にも上れない。

ただただ怖くて悲惨なのは、大地震である。



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平家物語の群像 大地震②この世の終わりか

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$吉備路残照△古代ロマン-地水火風五輪塔
(仏教における万物の構成要素である、地、水、火、風、空の五大要素をかたどった)

都とその周辺で、家屋などの下敷きになって亡くなった者の数はおびただしい。

四大種(世の中を構成している、地・水 ・火・風)のうち、「水・火・風」は時として災害を起こしたが、「地」は人々と社会を支え続けてきた。

その「地」が、大きく揺らいだ。

「今度こそ、この世の終わりかも知れない」

そう囁きあった住民たちは家の引き戸やふすまを固く閉ざして、天が鳴り地が揺れるたびに声高に念仏を唱え、わめき、叫んだ。

年を重ねた者らが、「この世はいつしか滅びる定めだが、まさか今日・明日のこととは思わなかった」などと話していると、彼らの話を聞いていた子供たちは怖くなって泣きだした。


後白河法皇は大地震が起きた頃は、新熊野神社で花を供えていた。

折しも、足元が激しく揺らぐ。

法皇は死者の穢れに触れたので神事に障りがあってはならないと、急いで輿に乗り六条殿へ戻った。

しかし、御所や内裏の建物はことごとく崩壊しているので、法皇は南庭に仮屋を建て、そこに仮住まいする。

後鳥羽天皇も、住まいを移した。

女院や宮たちも、それぞれ輿や車に乗って、別の場所に移り住んだ。

崩れている内裏へ呼ばれた天文博士が馳せ参じて告げる。

「午後10時から12時の間に、必ずや余震があるでしょう」

恐ろしいことこの上ない。


その昔、文徳天皇の斉衡3年(856)3月8日の大地震では、東大寺の大仏の頭が落ちた。


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平家物語の群像 大地震③平家一門の祟りか

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$吉備路残照△古代ロマン-平知盛亡霊の図 平知盛亡霊の図 歌川国芳画


東大寺大仏の頭部が落ちた斉衡(さいこう)の大地震から83年たった天慶(てんぎょう)2年(939)4月2日に大地震に見舞われた時には、朱雀(すざく)天皇は崩壊した清涼殿を去って、常寧殿の前に五丈(1丈は約3.03m)の仮屋を建てた。

しかし、それら2つの天災は上代のこと。

よもや今の世に、このような激震が大地を走ろうなどとは誰しも予想していなかった。

どこからともなく、流言飛語が飛び交った。

もしかしたら、今度の壊滅的な大揺れは滅亡した平家の怨霊によるのではないか。

一門の祟りで、このまま世が滅ぶのではないか。

心ある人はみんな嘆き悲しんだ。


平家の血を引いていた故・安徳天皇が都を落ちて、身を壇ノ浦の波の底に沈めた。

平家一門の大臣や公卿や女房らは、合戦の中で斬られたか入水したか、あるいは生け捕りの憂き目にあって都に戻されたうえ、市中を引き回されて首を刎ねられた。

流罪になって、妻子と別れ別れになった者も多い。

つい先ごろ、「平家にあらずんば人にあらず」とうそぶくほどに栄耀栄華をきわめた平家が、あれよあれよという間に滅び去ったのである。

源頼朝後白河法皇らに対する一門の恨みつらみは、骨髄に徹していたであろう。


元暦2年(1185)8月14日、元暦は文治(ぶんじ)と改元された。



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平家物語の群像 頼朝の布石①父・義朝との再会

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$吉備路残照△古代ロマン-源義朝  平清盛との合戦(平治の乱)に敗れて都落ちする源義朝 『平治物語絵巻』


文治2年(1186)8月22日、高雄の文覚上人は、頼朝の父・義朝のドクロを首に掛けて関東へ下っている。

それに先立つ治承4年(1180)7月、文覚は、頼朝に平家への謀反を勧めるために、怪しげなドクロを白い布に包んで差し出した。

「これは義朝殿の首だ。仇を討て」

頼朝はほどなく平家を倒して天下を取るが、文覚は今また別のドクロを探し出して、首にかけ鎌倉へ向かっている。

このドクロは、義朝が年来召し使っていた藍染職人が、平治の乱後に獄舎の前の苔の下に埋もれたまま誰も弔う者のなかった義朝のドクロを、検非違使の別当を説得してもらい受けたものである。

『頼朝殿は今は流人ですが、将来有望な方です。いつか、義朝殿の亡き骸を探されることでしょう』

こうして藍染職人が東山の円覚寺に深く納めて置いた義朝のドクロを、文覚が探し出して首に掛け下向しているのだ。

どうやら今度のは本物らしい。

文覚がもうすぐ鎌倉へ入ると伝えられると、頼朝は片瀬川のほとりまで迎えに出た。

それから、喪服に着替えて鎌倉へ戻った。

文覚が屋敷の縁側に立ち、頼朝は庭に立って目に涙を浮かべながら父のドクロを受け取った。

少年の時に別れた父・義朝のドクロとの再会。

哀れである。

その様子を見ていた大名や小名たちも皆、泣いた。

頼朝は険しい岩山を削って、父の菩提を弔うための道場を造り、勝長寿院と名づける。

都にそのことが伝わって、朝廷は故・源義朝に内大臣正二位を贈った。

勅使は左大弁・源兼忠であったという。

頼朝は武勇の名誉を得たことで、身を立て源氏を再興しただけでなく、亡き父の霊に贈官・贈位の名誉を与えられた。

まことに比類のないことである。



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平家物語の群像 頼朝の布石②公家平氏と武家平氏

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$吉備路残照△古代ロマン-公家平氏と武家平氏 公家平氏と武家平氏


文治元年(1185年)9月23日、頼朝は都にいる平家一門の残党をことごとく流罪にするよう公家たちに申し伝えた。

ならばと、次のように流罪地を決めた。

平時忠は能登国(石川県)、内蔵頭信基は佐渡、平時実は安芸、平尹明は壱岐、二位僧都全真は阿波、法勝寺執行能円は上総、経誦坊阿闍融円は備後、中納言律師忠快は武蔵。

ある者は西海の波の上、ある者は逢坂関の雲の彼方へ、ほんの数人の供回りの者と、親しい人々に再び会えるかどうかも分からず、別れの涙をこらえながら、それぞれの見知らぬ流刑地へと赴いた。

彼らの心の内は察するほどに哀れである。

時忠は、姪の建礼門院徳子に別れの挨拶に出向いた。

「いよいよ配所に赴きます。最後のご挨拶をするために、役人に時間をもらって参りました。都であなたの役に立ちたいと思っていたのですが、このような身になってしまいました。私がいなくなった後、どのようにお暮しになるのかと心残りです」

時忠が泣きながら告げると、建礼門院も涙が止まらなかった。

「壇ノ浦から都へ連れ戻されて以来、昔から知る人は叔父上だけでした。これから誰を頼ればよいのでしょう」


この時忠は平知信の孫、時信の子である。

時忠の系統は、清盛の系統と同じ桓武天皇の末裔ながら地方に土着して武士化せず、中級の公家としてずっと朝廷で暮らしてきた。

武家平氏である清盛の目覚ましい立身出世とともに、公家平氏の面々もずいぶんと羽振りが良くなってゆく。

時忠は高倉天皇の外戚にして、後白河法皇の后で高倉の母・建春門院滋子の兄、また清盛の妻・二位尼時子の弟である。

この上なく、きらびやかな閨閥だ。

「平家にあらずんば人にあらず」と口走ったのは、他ならぬこの時忠である。

正二位大納言にほどなく昇進し、検非違使別当には3度就いた。



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平家物語の群像 頼朝の布石③平時忠、能登へ

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$吉備路残照△古代ロマン-平時忠一族の墓時忠一族の墓 石川県珠洲市


平時忠が検非違使庁の別当(長官)だったころ、強盗や海賊などを捕まえると、容赦なく腕を切り落として追放した。

そのために、「悪別当」と呼ばれていた。

平家一門が、讃岐の屋島に本拠地を構えていた時のこと。

都から、安徳天皇三種の神器を都へ返還するようにとの院宣を届けに来た花方の顔に、「浪方」という焼き印をしたのも、時忠である。

後白河法皇は、寵愛していた亡き建春門院の兄なので、時忠に会いたいという気持ちもあったが、彼には悪行が多く法皇の怒りも相当なものだったから、結局会わずじまいであった。

また義経は、時忠のをめとっている関係で、時忠は義父にあたる。

それで、なんとか義父を助けようと手を打ったが、どうにもならず、ついに時忠は能登(石川県)に流されることになった。

16歳になる次男の時家は流罪から洩れて、伯父の時光のところにいたが、昨日から時忠の屋敷に来ていて、母の帥典侍(そちのすけ)とともに、父の袖にすがって名残を惜しんだ。

時忠は、「今日が最後の別れになるだろうか。そんなことはあるまい」と気丈に口にしたが、言葉とは裏腹にもはやこれまでと観念していたのだろう、心の中は悲しみに閉ざされていた。

年齢を重ねた今、仲睦ましい妻子と別れ、住み慣れた都を遠く離れて、名前だけは聞いたことのある土地へはるばる下って行く。

その道すがら、「あれは志賀の唐崎、これは真野の入江、堅田の浦」などと歌枕を口にしながら、涙ぐんで一首詠んだ。

  帰りこん ことは堅田に 引く網の

    目にもたまらぬ わが涙かな

帰ってくることは難しい。堅田の浦で漁師が引く網の目に水がたまらないように、私の目からも涙がこぼれ落ちるよ

昨日は西海の波の上を漂いながら源氏との怨憎会苦を味わい、今日は北国の雪の下で妻子との愛別離苦の辛さに都の雲を思った。



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平家物語の群像 頼朝の布石④土佐房昌俊、義経を

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$吉備路残照△古代ロマン-義経と頼朝  義経と頼朝 狩野探幽画


都にいる義経には頼朝の命令によって大名10人がついていたが、義経が頼朝に嫌疑をかけられていると聞くと、大名たちは相談して一人ずつ東国へ帰って行った。

なぜか。

何がきっかけで、頼朝は義経を疑い出したのか。

頼朝と義経は血を分けた兄弟であるばかりでなく、父子の契りまで交わしている。

しかも、その義経は、一の谷から瀬戸内海を西に平家を追撃してついに壇の浦において平家の息の根を止めた。

それから、三種の神器の鏡と勾玉を都へ持ち帰り、いくさ続きで乱れきっていた世の中を鎮めた。

大変な手柄である。

ところが、恩賞が与えられてしかるべきところを、どうやら頼朝の不審を招いている。

朝廷から庶民にいたるまで皆いぶかしがった。


後日、頼朝が義経を疑いだした理由に関する噂が流れる。

それは、屋島の戦いの前夜、義経梶原景時が摂津(大阪)の渡辺で舟に逆櫓(さかろ)を付けるか付けないかの論争をしたとき、義経からあざ笑われた景時がそのことを恨みに思って、あることないことを頼朝に讒言したからというものだ。


頼朝は、義経の勢力が大きくならないうちに一刻も早く京へ追っ手を差し向けて討つことにした。

だが、大名らを送り込めば、義経が宇治や勢田の橋を落として京の町が大騒ぎになってまずい。

どうしたものかと思い直して、土佐房昌俊(しょうしゅん)を呼んだ。

「和僧、上つて物詣でするやうで謀つて、(義経を)討て」

昌俊は命を受けると、宿所へも寄らずに都へ向かった。

文治元年(1185)9月29日、昌俊は上洛したが、翌日まで義経の屋敷へ挨拶に行かなかった。

義経は昌俊が京に来たことを聞くと、武蔵房弁慶を迎えによこした。

義経が、昌俊に尋ねる。

「土佐房、頼朝殿からの手紙を預かってはいないのか」


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ジャニーズ事務所は、「他人様の身体的特徴を笑ってはいけない」という基本的なことを教えていないらしい。

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頼朝殿の手紙は預かっておりません。口頭で伝えよ、とのことでした。それは、『都が安泰なのは、義経がいるからだ。今後ともしっかり警護するように』というものです」

「そんなはずはあるまい。お前は俺を討ち取るためにやって来た。『大名らに出陣させると、義経が宇治や勢田の橋を外して京が騒がしくなる。お前が上洛して義経を謀殺せよ』と命じられたのだろう」

「そんなことはありません。拙僧は、ただ熊野権現へ参詣するためにやって来たのです」

「ならば、梶原景時の讒言によって鎌倉に入れてもらえず、腰越から追い返されたのはなぜだ」

… … 対立⑥腰越状(大江広元への手紙)そのⅠ

「その件については、私は何も存じません。また後ろめたいことも全くございません。なんなら起請文(きしょうもん:誓いの文書)を書きましょう」

「いずれにせよ、頼朝殿の勘気をこうむっていなかったらの話だ」

義経は先刻からずっと不機嫌である。

昌俊はその場を取り繕うために、起請文を7枚書いて数枚を燃やして飲み込み、残りを神社の宝殿に奉納するなどして、やっと宿に戻った。

戻るとすぐに、都の警護のために諸国から3年交代で上京している大番衆を招集して、義経の屋敷に夜襲をかける計画を練った。

その頃、義経は磯禅師という白拍子の娘・を寵愛していた。

静御前は、義経のそばを片時も離れない。


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平家物語の群像 頼朝の布石⑥土佐房、鞍馬に逃走

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$吉備路残照△古代ロマン-義経千本桜 義経千本桜 (坂東玉三郎) 佐藤忠信実は(市川海老蔵)

その夜、外の騒ぎを聞きつけたが、義経に告げる。

「大路に武者が満ちています。義経様の命令がないのに、これほど多くの大番衆が騒ぐのは変です。きっと、昼間、起請文を書いた法師の仕業に違いありません。誰かを見に行かせましょう」

静は、故・平清盛に仕えていた童子をふたり、物見に出した。

しかし、なかなか戻って来ない。

女なら怪しまれないだろうと、今度は、召使の女に様子を探りに行かせた。

すると、すぐに走って戻り、報告した。

「童子の死体がふたつ、土佐房の宿所の門前に斬り捨てられています。門前には鞍を置いた馬がたくさんつながれ、中庭には鎧を着た武者たちが今にもこちらへ攻め寄せようとする様子。熊野権現詣でなど真っ赤なうそです」

「やはり、そうか」

太刀をつかんで出ようとする義経に、は鎧(よろい)を着せた。

義経は馬にまたがって門を開けさせ、土佐房一味の夜襲を待ち構える。

夜半頃に土佐房率いる4、50騎が押し寄せて、鬨の声をどっと上げた。

義経は鐙(あぶみ)を踏ん張って立ち上がり、大音声を張り上げた。

「夜討だろうと昼間の戦いだろうと、この義経を討てるほどの者はこの国にはいない」

義経が馬に鞭打って駆け回ると、馬に当てられることを恐れてか50騎ほどの武者たちは中を開けて通した。

そのうち、伊勢義盛や佐藤忠信、武蔵坊弁慶といった一人当千の者たちが次々に名乗りをあげて駆けつけた。

ほかにも義経直属の家人たちが、「殿のお館に夜討が入った」と、あちらの屋敷こちらの館から駆けつける。

義経勢はすぐに6、70騎になった。

土佐房勢は勇猛に攻め込んだが多くが討たれ、鞍馬の奥へ逃げ延びた。

鞍馬は義経と縁が深いということを、土佐房は知らなかったのか。

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昨日、たまたま地歌舞伎の『義経千本桜』を観ました。
上方歌舞伎と江戸歌舞伎に対して、各地方に江戸時代からの形で残っている歌舞伎を地歌舞伎というそうです。


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コンサートが終わって前田敦子が客席に向かってお辞儀をしている横顔をご覧ください。
国民的アイドルグループのトップとしての晴れがましい表情は微塵もなく、慟哭しているのかとさえ思えるほどの苦渋に満ちています。
直前までにこやかに歌い踊っていただろうし、顔をあげた時には間違いなく満面に微笑をたたえていることでしょう。
具体的に書くと膨大な文字数になるから略しますが、こうした体験を14歳の時から20歳まで積み重ねてきたからこそ、一部の識者には、「前田敦子はキリストを超えた」と思えるようです。

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