義経上陸の地 徳島県小松島市
「ここで殺されるも、沖に船を出して死ぬも同じことだ」
船頭や水夫らは、あきらめて船に向かった。
2月16日の丑の刻(午前1時~午前3時)、わずか5艘だけで出航した。
武士150人、馬50頭。
他の大多数は、梶原景時を憚ったか嵐を恐れたか、摂津の渡辺に残った。
義経の命令一下全員が従う、ということではなかったようだ。
義経は、ついてきた連中を鼓舞する。
「嵐で敵が油断しているときに攻めてこそ、勝てる。そなたたちの船には篝(かがり)火をたくな。篝火がたくさん見えたら敵が怪しむ。私の船の篝火を目印にしろ」
通常3日かかるところを、暴風に吹き飛ばされるようにしてたった3時間で阿波の勝浦に着いた。
夜が明けると、渚には平家の赤旗がひらめいている。
「波打ち際で馬を船から下ろせば、敵の矢の的になる。手前で船を傾けて下ろせ。
そして、船に引きつけながら泳がせろ。鞍の下端が海水に浸かるくらいの深さになったら、すぐに乗って駆けろ」と命じた。
50騎の義経勢が波打ち際へ雄叫びを上げて疾駆すると、浜辺にいた100騎ほどの武士たちは、思わず退却した。
義経は浜辺で馬を休めていたが、何か思いついたように伊勢義盛を呼んだ。
「あの連中のなかで気の利いた者をひとり連れてまいれ、頼みたいことがある」
義盛は100騎ほどの中へ単騎駆け入って、40歳ほどの黒皮威の鎧を着た者を、兜を脱がせ弓の弦を外させて連れてきた。
義経が、「何者だ」とただすと、「当国の住人、坂西近藤六親家」と名乗った。
義盛や弁慶らに命じる。
「これから親家に屋島までの道案内をさせる。親家から目を離すな。逃げようとしたら射殺せ」
遮那王(しゃなおう)、牛若丸、義経という国民的アイドルヒーロー、何かと口癖のように、「射殺せ」という。
義経は、平家から一の谷を奪い屋島を奪い彦島(壇ノ浦)を奪っていった。戦争の本質とは、古今東西、陣取り合戦なのだ。
『平家物語』の作者が、直に聞いたわけではないだろうが。
義経が親家を呼び、「ここは何というところだ」と問うと、「勝浦」と答えた。
縁起のいい地名に義経が笑って、「われらに気を使ったか」というと、「本当に勝浦です」
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平家物語の群像 義経⑲阿波の勝浦に上陸
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平家物語の群像 義経⑳勝浦合戦
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「者ども、聞いたか。合戦前に勝浦に着くとは実に縁起がいいではないか」
義経が、親家(ちかいえ)に尋ねる。
「この辺りに平家の味方をする者はいるか」
「阿波民部・田口成良(しげよし:四国最大の豪族)の弟で、桜間能遠(よしとお)という者がおります」
「そうか、ならば蹴散らして通ろう」と親家勢百騎の中から、人と馬を選りすぐって30騎を自軍につけた。
能遠の城に押し寄せると、三方は沼、一方は堀。
堀の方から押し寄せて、どっと鬨(とき)の声を上げる。
城兵が次々に矢を放ってきたが、義経勢はものともせず城内に攻め込んだ。
能遠は敵わないと思ったか、馬に乗って命からがら逃げ落ちていった。
義経は城兵20余人の首を刎ね、軍神の祭壇に祀った。
「門出よし」 (以下、義経のセリフは原文)
親家に訊いた、「これより八島には幾日路ぞ」
「2日です」
「八島には勢いかほどあるらん」
「千騎は、いないはずです」
「など少ないぞ」
「四国の浦々や島々に50騎、100騎と配置しています。その上、阿波民部の嫡子田内教能は、呼び出しに応じない伊予の河野通信を攻めようと、3000余騎で伊予へ向かいました」
「それは好機だ。気づかれないうちに急いで攻めよう」
駆けたり歩いたり急いだり休んだりしながら、阿波と讃岐の国境にある大坂越という山を、夜を徹して越えていった。
その夜、義経は正式な書状を持った男と道連れになった。
昨年あたりから、日・中の国力が史上初めて並んだと言われている。但し、日本は下り坂、中国は上り坂。外交がよほどしっかりしないと……。「trust me」の鳩山由紀夫氏を、絶対に外交顧問に再任してはならない。
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平家物語の群像 義経21屋島の城を攻める
義経と道連れになった男は、「屋島の地理は、よく存じております」という。
「そうか。ところで、その書状は誰から誰への手紙なのだ?」
「京都のさる女房から、屋島の宗盛殿への手紙です」
このおしゃべり男、自分の任務をまるで理解していない。
「何かあったのか」
「源氏がすでに淀川尻に出てきていることを知らせるためでしょう」
軍事機密が、敵側に筒抜けである。
男は、義経を平家方の武士と思ったのだろうか。
義経の顔を知らなくとも、将軍格の武将が身に着ける兜(かぶと)や鎧(よろい)などで、
源平の違いくらい見分けられなかったものなのか。
義経は、「あの文、奪へ」と郎党に命じて手紙を奪い、男を山中の木に縛りつけた。
書状を開けると、たしかに女房の筆跡。
「九郎義経はすばしっこい男ですから、どんな大風や大波も厭わず攻め寄せてくるでしょう。
決して軍勢を分散することなく、くれぐれも用心して下さい」
「これは義経に天の与へ給ふ文なり。鎌倉殿(源頼朝)に見せ申さん」
翌18日の寅の刻(午前4時)、讃岐国の引田という村里で人馬を休ませたあと、白鳥、丹生屋(にうのや)と通り過ぎた。
義経が、ふたたび親家を呼んだ。
「ここから屋島の城までは、どうなっているか」
「とても浅くなっています。引き潮のときは、馬の腹も海水に浸かりません」
「では、敵に気づかれぬうちに直ちに攻め込もう」
牟礼(むれ)や高松の民家に火を放って、屋島の城へ攻め込んだ。
河野通信を討つために伊予国へ出陣している田内教能は討ち洩らしたが、家子・郎等150余人の首を斬りとって、目指す屋島の内裏(だいり)へ向かった。
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平家物語の群像 義経22屋島の内裏炎上
牟礼や高松の方面からいくつも炎が立ち上っていることに気づいて、平宗盛の邸では上を下への大騒ぎになった。
「牟礼と高松あたりの民家が燃えているぞ~」
郎党が宗盛のところへ報告に来た。
「失火ではございますまい。源氏勢が火矢を放ったのでしょう。大軍です。包囲されては大変です。急いで船へ」
御座船(ござぶね)には安徳天皇と建礼門院、二位の尼以下の女房たちと宗盛父子が乗りこんだ。
その他の人々は、それぞれの船に乗った。
そして平家の船隊が5段(約55m)~1町(約110m)と岸から離れたころに、義経勢70~80騎ばかりが、宗盛邸の門前に現れた。
義経勢は平家方に小勢に見られまいと、5~6騎、7~8騎、10騎とまばらに姿を見せる。
華やかな装束に身を包んだ義経が、大声を張り上げた。
「後白河法皇の使者、検非違使五位尉・源義経」
それから、伊勢三郎義盛、佐藤継信・忠信兄弟、武蔵坊弁慶らが次々に名乗りを上げた。
平家方は、「あれ射取れや射取れ」と、遠矢を射かける。
源氏の兵たちはものともせず、さんざんに射返した。
実戦経験の豊富な後藤実基は、内裏(だいり:御所)に乱入して火を放ち、焼き払ってしまった。
宗盛は郎党に、「源氏の勢はいかほどあるぞ」と尋ねる。
「70~80騎にはよも過ぎ候はじ」
「たったそれだけか。情けない。あわてて船に乗って、内裏を焼かれてしまった。教経(のりつね:平家一の強者)殿はいないか。一戦交えよう」
政治的な対立がたちどころに文化や経済に及んでしまう中国の実情には困ってしまう。さっきNHKの『日曜討論』を聞いていたが、「中国人の46%は、日本は軍国主義と思っている」と高名な学者が語っていた。
中国政府は、各地の『抗日記念館』や映画などで、旧日本軍の(残虐性)を今なお国民に叩き込んでいる。日本を敵視することによって、約13億5千万人の多民族国家をまとめようとしているのか。
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平家物語の群像 義経23教経、王城一の強弓
平能登守教経(のりつね)
「承知しました」
平盛嗣(もりつぐ)、伊藤忠光、伊藤景清(かげきよ)を先鋒として、総勢500余人が、義経勢が焼き払った宗盛邸の門前の水際に押し寄せて布陣した。
義経の80余騎は、互いの矢が届く距離まで寄せた。
平家方から盛嗣が、甲板に進み出て大声を張り上げる。
「先ほどどなたか名乗られたが、海上遠く離れていて名前を聞き取れなかった。
今日の源氏の大将軍はどなたかな。名乗られよ」
伊勢義盛が歩み出た。
「愚か者め。清和天皇十代の後胤。源頼朝殿の御弟、九郎大夫判官義経殿だ」
「ああ、そうだった。平治の乱で義朝が討たれて、鞍馬山で稚児になった。それから金売り商人の手下になって奥州へ下った、あのこわっぱだな」
「殿の悪口を言うのをやめろ。そういうおまえらこそ、倶利伽羅峠の戦いで惨敗して、北陸道をさまよいながら乞食をしていたというではないか」
「おまえらこそ、伊勢の鈴鹿山で山賊まがいのことをしながら、暮らしていたと聞くぞ」
義経方の金子家忠が進み出た。
「やめろ、罵り合ってどうする。平家方の面々よ。一の谷で、坂東武士の手並みを思い知ったであろう」
家忠が言い終わらないうちに、弟の与一が、十二束二つ伏せの矢を引き絞ってひゅっと放った。
矢は、盛嗣の鎧の胸板の裏へ抜けた。
それで、悪口合戦は止んだ。
悪態合戦が終わると、真打平教経の登場である。
「船いくさには、船戦のやり方がある」
直垂を着けず、唐巻染の小袖に唐綾威の鎧を着、厳めしい作りの太刀を佩き、
24筋差した鷹黶の矢を背負い、滋籐の弓を持った。
教経は王城一の精兵。
教経の矢面に立った者たちは、ことごとく射殺された。
教経は一矢で義経を射止めようと狙っていたが、源氏勢は教経の強弓が王城一であることを知っている。
佐藤継信・忠信兄弟、江田弘基、熊井忠基、武蔵坊弁慶らが、馬の頭を一列に並べて義経の矢面(やおもて:敵の矢が飛んでくる正面)を防いだ。
教経には、なす術がない。
「そこをどけ、雑魚(ざこ)ども」
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平家物語の群像 義経24佐藤継信、討たれる
教経が次々に矢をつがえて射ると、たちまち鎧武者十余騎ほどに命中した。
奥州平泉の佐藤継信は、左の肩から右の脇へかけて射抜かれ、たまらず馬上から真っ逆さまに落ちた。
教経の童子・菊王丸は怪力無双の剛の者。
萌黄威の腹巻に三枚甲の緒を締め、打物の鞘を外して継信の首を取ろうと飛びかかったが、近くにいた佐藤忠信が、兄の首を取らせてなるかと、
十三束三つ伏せの矢を引き絞ってひゅっと放った。
菊王丸は腹巻の草摺りを射ぬかれ、四つんばいになって倒れた。
それを見た教経は、左手に弓を持ったまま、右手で菊王丸を抱えて船へ投げ込んだ。
だが、深手を負っていた菊王丸は絶命する。
菊王丸はもとは教経の兄通盛(みちもり)の童子だったが、通盛が一の谷で討たれた後、教経に仕えていた。
享年18。
教経は、菊王丸が討たれたことで戦意を喪失する。
義経は馬から飛び下りると、継信の手をとって声をかけた。
「いかが覚ゆる」
「今はかうと覚え候へ。(もうだめです)」
「思ひ置く事はなきか」
「何もありません。ただ、殿が世に出られるのをこの目で見ることなく、死んでいくことだけが心残りです。弓矢取る者が、敵の矢に当って死ぬのはもとより覚悟の上。
末代まで、『源平合戦のとき、奥州の佐藤継信という者が、屋島の戦いで主君の身代わりに討たれた』と語り継がれることこそ、今生の面目、冥途の土産です」
目に見えて弱っていく継信の様子が哀れで、義経は鎧の袖を濡らした。
「このほどに貴き僧やある」
郎党の一人が、尊い僧を探して連れてきた。
「深手を負って今にも死にそうな者がいます。一日、お経を書いて弔って下さい」
そして、義経は、太くて逞しい黒馬に立派な鞍を置いて、布施として僧に与えた。
その馬は、義経が五位尉に任ぜられたとき、同じく五位として大夫黒(たいふくろ)と呼ばれた名馬である。
義経は、その馬に乗って鵯越(ひよどりごえ)の坂を落ちた。
思い出も愛着もある、かけがえのない馬だ。
その大事な大夫黒を、継信を弔ってもらった御礼として手離したのである。
忠信をはじめ、郎党らはみな、涙ぐんだ。
「殿のためなら、命を捨てても惜しくはない」
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一般の中国人は、やさしくて思いやりのある人々だと思う。
しかし、こういう光景を度々見せられると、「相手が弱いとみるや、中国共産党は何をするか分からない」と思ってしまう。一党独裁国家の軍部の蛮行は、反日デモ隊のわが目を疑うような粗暴な破壊・略奪行為に通じる
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平家物語の群像 義経25扇の的
扇の的
日が西の空に傾きかけたころ、平家に背いて源氏に寝返った阿波(徳島)や讃岐(香川)の者たちが、あちらの峰やこちらの洞穴から14~15騎、20騎と連れ立って義経勢に合流した。
義経勢は300余騎になった。
「もう日が暮れた。決戦は明日だ」
退却しようとすると、沖の方から立派に飾り立てた小舟が一艘、波打ち際へ向かって近づいて来る。
そして、7~8段(1段=11m)ほどの距離になると、舟を横に向けた。
「あれは何だろう」と見ていると、柳の五衣に紅の袴を着た18~19歳ほどの女房が舟の中から出てきた。
そして、日の出が描かれた紅の扇を舟の横板に挟んで立て、陸に向かって手招きする。
義経は、後藤実基(さねもと)を呼んだ。
「何だ、あれは」
「『扇を射てみろ』ということでしょう。殿が矢面にでて傾城(けいせい:美女)をご覧になっているところを、弓の手練れに狙わせるための罠かも知れません。
しかし、扇は射るべきでしょう。戦意に関わります」
「味方にあれを射ることのできる弓の上手はいるか」
「名手はたくさんおります。殊に、下野(しもつけ:栃木)の那須与一宗高は小柄ですが、腕は抜きんでています」
「何か根拠はあるのか」
「空を飛ぶ鳥を追いかけて、3羽のうち2羽は射落とします」
「では、与一を呼べ」
←下記の文はこの絵の説明
褐に赤地の錦で、襟や袖を彩った直垂に萌黄威の鎧を着、足白の太刀を帯き、24筋差した切斑の矢を背負い、薄切斑に鷹の羽根を割り合わせて作った觘目の鏑矢を差していた滋籐の弓を脇に挟み、兜を脱いで高紐に掛け、義経の前に畏った。
与一はまだ20歳ほど。
「与一、あの扇の真ん中を射抜いて、平家に目にものを見せてやれ」
「自信がありません。射損ねましたら、長く味方の弓矢取りの恥になります。確実に射止められる方に仰せつけられた方がよろしいかと存じます」
義経はひどく怒った。
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あまりにも残忍な人権無視の「遅れてきた植民地主義」。もしアメリカがアジアから手を引いて、日本がより弱体化したら……。
国連などの国際機関はなぜ、チベット族やウイグル族あるいはモンゴル族に手を差し伸べないのか。内政問題だから?
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平家物語の群像 義経26扇の的と那須与一
「このたび鎌倉を発って平家討伐に赴く者らは、義経の命に背いてはならぬ。従う気のない者は、すぐに鎌倉へ帰れ」
与一は、思い直した。
「承知しました。ご命令ですので、やるだけやってみます」
御前を退くと、太くたくましい黒馬に、丸海鞘の紋が描かれた金覆輪の鞍を置いて乗った。
そして滋籐の弓を持ちなおし、手綱をさばいて、波打ち際へ馬を進めた。
坂東武者たちが与一を見送りながら、「あいつなら必ず射止めるに違いない」と話している。
彼らの話を耳にした義経は、与一の後姿を頼もしそうに眺めていた。
扇の的までやや遠いので、与一は、海の中に一段(11m)ほど入ったが、
それでもまだ扇までの間合いは七段はあるように思えた。
2月18日の酉の刻(夕方5~7時頃)。
北からの風は激しく、磯に打ち寄せる波は高い。
舟は波に大きく揺られ、扇はひらひら動いて定まらない。
沖合には、平家方が何艘もの船を並べて見物している。
陸では、源氏勢が馬を並べて眺めている。
「扇の的」と「与一の武者振り」の取り合わせが一幅の名画を見るようで、
源平両軍とも晴れがましい雰囲気に包まれていた。
与一は、目を閉じた。
「南無八幡大菩薩、我が国の神明、日光権現、宇都宮大明神、那須湯泉大明神、願わくは、あの扇の真ん中を射させて下さい。もし外したら、ただちに弓を折って自害します。
もう一度、那須へ迎えてやろうと思って下さるのなら、どうか矢を外させないで下さい」
心の中で祈り、目を見開いた。
風がおさまって、扇を射やすくなっている。
与一は鏑矢(かぶらや)を取って弓につがえ、引き絞ってひゅっと放った。
小兵といえど、十二束三つ伏せ、弓の張りは強く、鏑矢は海辺に響き渡るほどに長鳴りして、
扇の要から一寸ほどのところをみごとに射切った。
扇は空へ高々と舞い上がって、春風に一もみ二もみ揉まれると、さっと海に散った。
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「パン」、「パン」。雪山に響く乾いた銃声。憧れと至福にみちた「巡礼の旅」が、一瞬にして、「死出の旅」に暗転する。
平家物語の群像 義経27戦にも美学はあろう
扇に描かれた日の出は、夕日に輝やきながら白波の上を浮きつ沈みつしながらたゆたっている。
沖では、平家の面々が感服して船のわきを叩いている。
陸では、源氏勢が箙(えびら:矢を入れて肩や腰に掛け、携帯する武具)を叩いて喝采している。
あまりの素晴らしさに感極まったか、平家方から、黒革威の鎧を着た50歳ほどの男が、白柄の長刀を杖にし、扇を立てたところに立って舞い始めた。
伊勢義盛が、与一のそばに馬を近づけた。
「殿のご命令だ。あの男を殺せ」
さっき、「義経の命令に従わぬ者は、鎌倉に帰れ」と言われたばかりだ。
与一は鋭い矢尻の矢を弓につがえると、与一の腕前に感心して浮かれ躍っている男の心臓めがけてひゅうと射た。
男は、心臓を射抜かれて舟底へ真っ逆様に倒れた。
源氏方ですら、「みごとに心臓を射抜いた」とほめる者は少なく、「何と非情な!!」と非難する者の方が多かった。
ほめそやしたのは、平泉以来の義経の郎党か。
平家方は、静まり返っている。
見てはならないものを見てしまったという重苦しい空気が、海上に流れている。
しばらくすると、平家方から、弓を持った者、楯を持っている者、長刀を提げている者3名が、船を飛び下りて上陸した。
わずか3名である。
よほど源氏の所業が許せなかったのだろう。
「犬畜生にも劣る源氏の者ら、戦え」
「生意気な。騎馬に長けた若党ども、駆け込んで蹴散らせ」
義経が命じると、武蔵国の美尾屋四郎、同・藤七、同・十郎、上野国の丹生四郎、信濃国の木曽中次の5騎が、
馬を並べ、雄叫びを上げながら平家方の3名に突進した。
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アムネスティなどの民間団体に任せておける時期はとうに過ぎた。国連などの公的な国際機関が、
一定の権力を持って乗り出さないことには何も変わらない。
少数民族とはいえ、チベットとウイグルと内モンゴルはかなり広い(国土)と人口をもち、世界的にも注目されている。
一方、中国には60近い少数民族が住んでいると言われるが、彼らの中にはもっともっと悲惨な状態に苦しんでいる種族がいるのかも知れない。
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平家物語の群像 義経28遠からん者は音にも聞け
『耀武八景 大寺晩鐘悪七兵衛景清』 歌川国芳画
美尾屋十郎がまっ先に駆けて行ったが、平家方の楯の後ろから飛んできた矢で、
十郎の馬の胸が、矢先が隠れるほどに深く射られた。
馬は、屏風を倒すようにひっくり返った。
十郎は馬の左脚を飛び越え、馬の右側に立つや、すぐに小太刀を抜いた。
平家方の武者は、長刀を振り回して十郎に襲いかかる。
十郎は小太刀では長刀に敵わないと思ったか、地面を這うようにして逃げ出した。
長刀を持った武者が、追いかける。
長刀を右の脇に抱え、左手で十郎の兜をつかもうとした。
十郎は逃げるが、ついに4度目に兜をつかまれた。
十郎はしばらく堪えていたが、兜の鉢に付いている板を切って、逃げた。
源氏の残りの4騎は、馬を射られたくないのか高みの見物をしている。
十郎は彼らの馬の陰に逃げ込んで、ようやく息を整えた。
平家の武者は追って来なかった。
十郎の兜を長刀の先に貫いて高く掲げ、大音声を上げた。
「遠からん者は音にも聞け、近からん者は目にも見給へ。これこそ京童部(きょうわらわべ)の喚(よ)ぶなる上総悪七兵衛景清よ」
平家方では、景清の活躍に気を取り直して、「悪七兵衛討たすな者ども。景清討たすな続けや」と、200人余りが渚に上がって楯を並べ、「源氏よ、かかって来い」と招いた。
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英国のBBC(日本ではNHKに相当)の映像で人が燃えています。心優しい方は、御覧にならない方が精神衛生上よろしいかと思います。
平家物語の群像 義経29弓を海に落とす
義経は、「捨ておけぬ」と伊勢義盛と佐藤忠信を前に立て、後藤実基・基清父子と金子家忠・親範兄弟を左右に立て、田代信綱を後ろにつけて、
80余騎で雄叫びを上げながら平家勢に突撃した。
平家方はほとんどが徒武者(かちむしゃ:歩兵)、馬に蹴られまいと急いで船に戻った。
歩兵に騎馬で突撃した義経勢は勝ちに乗じて、馬の腹が浸かるほど海に入って攻め込んだ。
平家方は船の中から熊手を持ってきて、義経の兜の錣(しころ: 兜の鉢の左右・後方につけて垂らし、首から襟の防御とする札)に引っ掛けようとする。
義経の郎党らが太刀や長刀の切っ先で熊手を払いのけながら戦っている際、義経はどうしたことか弓を海に落とした。
義経が海面を見たままうつむいて鞭で弓を拾おうとしているので、郎党らは、「弓などお捨てなされ。命が危のうござる」と大きな声をかけた。
やっと義経が弓を拾い上げて戻ってくると、郎党らはあきれ顔でいう。
「どれだけ貴重な弓であっても、命には代えられません」
「弓が惜しくて拾ったのではない。叔父為朝が使っていたような強弓ならば、わざとでも落として敵に拾わせるだろう。
私の弱い弓を平家が拾って、『これが、義経の弓なのか』とあざ笑われるのが悔しいから、命に代えても拾ったのだ」
郎党らは、義経の心がけに感じいった。
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これはさほど胡錦濤個人を攻撃したものではないし、チベット問題の概略を理解するのに相応しいのではないかと思って載せました。
チベット人のやむにやまれぬ「命がけの抵抗」を、「暴動」と呼んで欲しくないものです。
平家物語の群像 義経30伊勢三郎義盛
伊勢義盛 菊池容斎画 江戸時代 『前賢故実』収録
夕闇が迫ると、平家の船団は沖合に浮かび、源氏勢は陸に上がって、高松や牟礼(むれ)の後背をなす野山に陣を構えた。
源氏方の武士たちは、この3日間一睡もしていない。
一昨日は、摂津の渡辺を船で漕ぎ出してからずっと大波に揺られ通しで、まどろむこともなかった。
昨日は、阿波の勝浦に着いてすぐに桜間能遠と合戦(勝浦合戦)した後、夜を徹して中山を越えた。
今日は、平家との戦いに明け暮れた。
人も馬も疲れ果てて、兜や鎧の袖などを枕に、泥のように眠っている。
しかし、義経と伊勢義盛は眠らなかった。
義経は高いところに上がって平家の様子を見張り、義盛は窪んだ所に隠れて敵が攻めてきたら馬の腹を射てやろうと待ち構えていた。
平家方では平教経を大将軍として、夜襲をかけようとしたが、越中盛嗣と海老盛方が先陣を争っているうちに夜が明けてしまった。
もし、攻め込んでいたら、二人をのぞいて眠り込んでいる義経勢はひとたまりもなかったであろう。
夜が明けると、平家は讃岐(うどん県)の志度浦へ退いた。
義経は80余騎で、平家を追いかけた。
平家は義経勢の少ないのを見て、「源氏は小勢ぞ。中に取り籠めて討てや」と、1000人余りが陸に上がり、源氏を包囲して、「我討ち取らん」と突撃しようとした。
ちょうどその時、屋島に残っていた義経勢200余騎がやって来る。
平家はこれを見て、「あはや源氏の大勢の続きたるは。取り籠められては叶ふべからず」と海上の船へ戻って行った。
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北京五輪聖火リレー時の長野駅前の光景です。ロンドンやパリ、バンコクなど世界各地で、チベット人を弾圧している中国に対して民衆の抗議がわきあがり、それらの国に住んでいる中国人が多くの仲間を動員して激しく反発しました。
日本人は、外国の都市でわがもの顔で振る舞えるだろうか。まず、こんな形では群れないだろう。
パリでは流血騒ぎです。(次回に)
平家物語の群像 義経31智謀家、伊勢義盛
義経に上洛への拠点である屋島を攻略された平家一門は、源範頼(のりより)の軍勢が待ち構えているため、
ふたたび九州へ赴いて捲土重来を期すこともできず、瀬戸内海を漂流していた。
義経は志度の浦で首実検をしていたが、伊勢義盛を呼んだ。
「阿波民部・田口成良(しげよし)の嫡子・田内教能(のりよし)は、伊予の河野通信(みちのぶ)が召集しても応じないので、通信を攻めるため3千余騎で伊予へ向かったが、通信を討ち洩らしたそうだ。家子・郎等150人の首を刎ねて、昨日屋島へ戻り、今日ここに着くと聞いている。会って連れて参れ」
義盛は白旗を受け取ると、手勢16騎を率いて向かった。
義盛勢16騎と教能勢3千余騎が、一町(約109.09m)ほどを隔てて、互いに赤旗と白旗を立てる。
義盛は、教能のもとへ使者を送った。
「お聞き及びと存じますが、源頼朝殿の弟・義経殿が平家追討の院宣を承って西国へ向かっておられます。その郎党で伊勢義盛と申します。貴殿と合戦するつもりはなく、武具もなく弓矢も携えておりません。
お話があって、こちらへ参上しました。道を開けて下さい」
教能勢が道を開けて、義盛を通した。
教能と馬を並べて、義盛がいう。
「義経殿が平家追討のため、一昨日阿波の勝浦に着いて、殿の伯父上・田口良遠殿を討ち取られました。それから、屋島に着いて、内裏を焼き払い、安徳天皇は海にお逃れになりました。宗盛殿・清宗殿父子を生け捕りにしました。教経殿はご自害。他の方々も自害あるいは入水なさいました。残党も、今朝、志度の浦で討ち取りました。
殿の父上・田口成良殿は降伏され、私がお預りしておりますが、『なんということだ。教能は事情を知らず、明日、合戦して討たれるだろう。痛ましいことよ』と一晩中嘆かれていました。それが何とも気の毒で、お知らせに参上しました。
合戦で討たれるか、あるいは兜を脱ぎ弓の弦を外し降人となって父上と再会されるか、殿のお考えひとつです」
教能は、「聞いていた通りだ」と、兜を脱ぎ弓の弦を外して、源氏の軍門に降った。
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古代ギリシャ以来、平和の祭典であるオリンピック。
アテネやスパルタなどの都市国家が、どんなに激しい戦争をしていてもオリンピック期間中は戦いを止めたという。
そのシンボルともいえる聖火を掲げたランナーがやってくるのを待ち構えていたかのように、アテネから北京までのほとんどの都市で、平和の祭典にふさわしくない騒ぎが起きた。
何事もなかったのは、聖火が北朝鮮と中国を走る時だけではなかったか。
「チベット問題」を、わがことのように考えている人々がいかに多かったかということの証明にもなる。
平家物語の群像 義経32源平両軍、長門国に布陣
わずか16騎を率いた伊勢義盛が、巧みな弁舌で投降させた3千余騎の大将・田内教能(のりよし)を義経に目通りさせた。
「義盛、そなたの計略はいつもながら見事だ」
義経は、教能の武装を解くと身柄を義盛に預けた。
「ところで、あの3千騎はどうすればいいか」
「彼らは遠国の者、誰を主君に仰ぐということはありません。乱世を鎮め、国を治める人物を主君とするでしょう」
「もっともだ」
義経は、3千余騎を源氏軍に取り込んだ。
嵐がおさまるまで摂津(大阪府)の渡辺に待機していた200余艘の船が、梶原景時を先鋒として、2月21日の辰の刻(午前7~9)に屋島に到着する。
義経の郎党らは、せせら笑った。
「四国はすでに義経殿が落とされたた。もはや何の役にも立たない。
『6日の菖蒲(5月5日の端午の節句が終わって役に立たない菖蒲)、法会に間に合わない花(法要に間に合わなかった献花)、喧嘩のあとに持つ棒切れ』とはこのことだ」
屋島の合戦に勝利した義経は、周防国(すおう:山口県東南)へ赴き、兄の範頼と合流した。
平家が長門国(山口県北西)の彦島に到着したという噂が伝わると、源氏も長門国の追津(下関市・奥津)に向かった。
源平両軍が、時期を同じくして長門の国に陣を構えたことは不思議といえば不思議である。
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半月ほど前に読んだ新聞か雑誌の座談会で、ある評論家が、「中国の反日デモの中核をなす連中には、政府から日本円にして2千円ほどの日当が出ています。プラカードを掲げるとプラスα。中国ではかなり高給ですよ」と語っていた。
その時は、「まさか!!」と読み流したが、世界各地での暴動を見ていると、「もしや?」と思わざるを得なくなる。
死傷者がでるほどの荒っぽい騒ぎを、たまたま参加した人々だけで起こすだろうか。
騒ぎを起こすプロ集団が混じっていやしないか。
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平家物語の群像 義経33船団は続々と源氏側へ
熊野別当湛増と弁慶 (父子との説あり) JR紀伊田辺駅前
紀伊国(和歌山県)の熊野別当湛増(たんぞう)は平家に恩義のある身だが、源氏はなはだ有利の情勢下、平家につくか源氏につくか迷っていた。
田辺の新熊野神社(闘鶏神社)に7日間こもって、神楽を奏して熊野権現に祈願した。
「白旗(源氏)につけ」との託宣が下ったが、まだ決めかねて、白い鶏7羽と赤い鶏7羽を熊野権現の御前で勝負させた。
すると、赤い鶏は7羽とも負けて逃げてしまう。
そこで、源氏につくことに決めた。
湛増は、恩義に報いるより勝ち馬に乗ったのだ。
湛増配下の2千人余りが200余艘の兵船に乗って、源平両軍が布陣する長門(山口県)方面へ出航した。
新熊野神社の御神体である若一王子を船に乗せ、旗には金剛童子を描いて壇の浦へ進んでいると、源平両軍ともに湛増の船に向かって手を合わせている。
しかし、ほどなく清盛の頃から目を掛けていた湛増の船団が源氏に味方することが分かって、平家の面々は愕然とする。
伊予国(愛媛県)の河野通信も150艘を率いて現れ、これも源氏と合流。
平家一門はすっかり、気が萎えてしまった。
元歴2(1185)年3月24日卯の刻(午前5~7時)、豊前国(大分県)田の浦、門司の関、赤間が関で源平は矢合せすることに決まった。
だが、その日、義経と梶原景時が激しく対立した。
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米国のシンクタンク、戦略国際問題研究所(CSIS)が今週発表した報告書によると、2011年のアジアの国防費は上位5カ国・地域の合計が2230億㌦(約17兆6000億円)。
中国が、このうち4割を占めている。
中国が合計899億㌦(約7兆円)で1位、2位が日本の582億㌦、3位がインドで370億㌦、4位が韓国286億㌦、5位が台湾101億㌦。
但し、中国は実際の国防支出は公表額よりずっと多いとされ、同報告書はストックホルム国際平和研究所(SIPRI)発表の金額として、中国の11年度の国防支出は1422億㌦だったとしている。
つまり、中国の国防支出はすでに日本の3倍近い水準に達している。