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Channel: 吉備路残照△古代ロマン
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平家物語の群像 義経③復讐の鬼

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$吉備路残照△古代ロマン-鞍馬寺仁王門  鞍馬寺仁王門

遮那王が16歳のころ、正門坊と名乗る僧が現れ、遮那王が平清盛に敗れた源氏の棟梁・義朝の子であることや、異母兄の頼朝が伊豆の国に流されていることなどを語った。

平時忠が、「平氏にあらずんば人にあらず」 とうそぶいていた頃である。

この日を境に、遮那王は平家討伐を胸に秘める。

貴船神社に、打倒平家を祈願した。

それからというもの、日夜、「謀叛を起こすため」武芸を磨くことに没頭する。

鞍馬山の鬱蒼とした木立の間を飛んだり跳ねたり、太刀を縦横無尽に振り回したりしては腕を磨いた。


ある夜、遮那王の行動を不審に思った師の東光坊阿闍梨が、寺男に遮那王の後をつけさせた。

すると、僧正ヶ谷の生い茂った草木を平家一門に見立て、1本だけ聳え立っている大木を「清盛」と名付けて、何度も何度も刀で切り付けている。

それから、懐から取り出した毬杖(ぎっちょう)の玉二つを、清盛と重盛の首に見立てて木に吊し、滅多打ちにしている

そこには、復讐に燃える鬼気迫る遮那王の姿があった。

これを知った東光坊が驚いて注意すると、遮那王は僧正ヶ谷へ行くのを止めたが、
鞍馬寺の本尊に日参して密かに平家討伐を祈願した。



おじさん論客たちに熱く語らせる「AKB48現象」って何でしょう

承安4(1174)年、打倒平家が当面の目標になった遮那王は出家を拒否して、鞍馬寺を出奔。平家の勢力範囲を離れるため、藤原秀衡を頼って奥州平泉に下った。

治承4(1180)年8月、兄頼朝が挙兵した。



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平家物語の群像 義経④奥州平泉へ

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$吉備路残照△古代ロマン-藤原秀衡  鎮守府将軍 藤原秀衡


遮那王は、自分の素性を教えてくれた正門坊に、「都の様子を時々知らせて欲しい」と頼んで、金売り吉次の一行に紛れて京を離れた。

奥州の白河の関までは、平家の目を警戒しながらの北上である。

藤原秀衡に会う前にぜひ元服を済ませておきたいと思っていた遮那王は、近江国蒲生郡の「鏡の宿」で、自分の手で元服の儀を執り行った。

そして、烏帽子親 (えぼしおや:元服儀式の際に加冠を行う者) がいないので、自ら源九郎義経と改名する。


熱田神宮に立ち寄った。

熱田神宮の前の大宮司は、父義朝の正室由良御前の父であり、由良御前は頼朝の生母である。

本拠地の関東と京をたえず往復していた義朝には、長男の義平をはじめ宿場宿場の遊女に産ませた子供が多く、頼朝の母親が飛びぬけて出自が高い。

このことが、頼朝が三男でありながら、子供のころから後継者扱いされていた所以である。




義経一行が長旅の末に平泉に着くと、秀衡は、
「数日前、館に黄金の鳩が舞い込む夢を見たが、あれは吉兆だったのだ」と大いに歓迎してくれた。

こうして、義経は16~23歳というもっとも多感な6年間を平泉で過ごすことになる。
もっとも、平泉での生活ぶりは何ひとつ分かっていない。

治承4(1180)年8月17日、頼朝が伊豆で挙兵すると、義経は一も二もなく馳せ参じようとしたが、秀衡がとめた。



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平家物語の群像 義経⑤頼朝の旗揚げまで

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$吉備路残照△古代ロマン-源義経  源義経 本人に1番似てる?


秀衡(ひでひら)にはもちろん、義経が一刻も早く頼朝のもとに駆けつけたい気持ちは痛いほど分かる。

だが、「平家の勢力はまだ盤石。今、鎌倉へ参陣するのは時期尚早だ。もう少し、様子を見てからの方がよい」と待ったをかけたのだった。

秀衡も義経も中央の情報はしっかりと収集しているようだから、当ブログでも、
頼朝挙兵までの経緯をざっと振り返っておきたい。

保元・平治の乱の最終勝利者になった平清盛は、朝廷で独裁権力をふるい、平家一門で高位高官をほとんど独占した。

         清盛①保元・平治の乱

当然、朝廷内外において平家への反感が広がる。

最初の平家打倒の動きは、治承元(1177)年6月の「鹿ヶ谷の陰謀」となって表面化する。

         鹿ヶ谷の陰謀①伏線

後白河法皇も絡んだ陰謀だったが、多田行綱の密告によってあっという間に一網打尽にされた。


それから治承4(1180)年4月、以仁王(もちひとおう)が大寺社や各地の源氏などに平家討伐の令旨を送った。

         源頼政⑪以仁王と橋合戦

以仁王は源頼政とともに簡単に平家によって討伐されるが、「令旨」が意外に効力を発揮。
反平家の動きが、各地に燎原之火のように広がってゆく。





頼朝は、この「以仁王の令旨」を名分として、打倒平家の旗揚げをしたのである。

        景時②石橋山の戦い

その頼朝挙兵の報が平泉に届いたとき、義経は気が逸ったが、秀衡は時期尚早と判断した。



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平家物語の群像 義経⑥平泉を出奔、鎌倉へ

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$吉備路残照△古代ロマン-源義朝  源義朝  『平治物語絵巻』


義経は、自分の身を案じて秀衡が、「関東へ行くのはまだ早い」と言ってくれているのは十分すぎるほど分かっている。

だが、今すぐにでも兄・頼朝とともに平家を倒して父・義朝の仇を討ち、都に源氏の旗を立てたいという気持ちを抑えようもない。
ひそかに平泉を脱出して、鎌倉に向かった。

そのことを知ると秀衡は、家臣の佐藤継信と忠信兄弟を呼んで命じる。

「義経殿を追いかけて、どこまでも供をせよ」

ここで想像をたくましくすると、秀衡がいよいよ時機到来とみるまで義経が平泉で待機していたら、数百あるいは数千の兵を貸し与えるつもりではなかっただろうか。

百戦錬磨の秀衡公、まさか義経を単身で鎌倉の頼朝のもとへは送るまい。

だが、脱走したら如何ともしがたい。

義経は佐藤兄弟のほかに、伊勢義盛と堀景光、武蔵坊弁慶ら20人にも満たない、
とても軍勢とはいえない少人数で鎌倉へ走った。

老練な政治家である秀衡は、実弟がこんなわずかな人数で参陣したら御家人たちの手前、
頼朝の体面を傷つけることを見通していたはずだ。





そのことと義経の母・常盤の出自(家柄)が低いことから、頼朝は義経を弟としてではなく、家人として遇することになる。

常盤は都で一番の美女だが、当時は出自がモノをいった。

熱田神宮の大宮司の娘を母とする頼朝には、どうやら異母兄弟に対して強烈な自負心があったようだ。

頼朝の御家人たちは、義経の存在すら知らなかった。



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平家物語の群像 義経⑦黄瀬川の対面

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$吉備路残照△古代ロマン-黄瀬川の対面  黄瀬川の対面 安田靫彦         クリックして拡大して下さい

治承4年(1180)10月20日、頼朝は平維盛の大軍を「富士川の戦い」で潰走させて鎌倉に戻る途中、黄瀬川(静岡清水町)で陣を張っていた。

           維盛④富士川の戦い

そこへ、義経一行が、平泉から夜を日に継いで馬を飛ばして駆けつけて来た。

そして、「齢20余、色白く、せい小さき男の、面魂(つらだましい)、眼差しすぎて(眼光鋭く)見えけるに、郎党20余騎を相具して」やってきた男(義経)が、
居合わせた御家人たちに頼朝への取次を頼んだ。

「鎌倉殿にお目にかかりたい」

居合わせた御家人とは、頼朝が石橋山で挙兵したときから従っている、土肥実平と土屋宗遠そして三浦義実の3人である。

彼らは、「之を怪しみて執啓(しっけい:取次)する能はずして、剋(とき)を移す」

義経を怪しい人物と思って、取次かずに放っておいた。

義経は当然のことながら、「自分は、頼朝の弟の義経という者である」と名乗ったはず。

つまり、頼朝の最古参の御家人たちさえ、頼朝に義経という弟がいることをを知らなかったわけだ。

双方で押問答しているうちに、頼朝の耳に入った。




頼朝は実平を呼んで、怪しい男の年恰好や、どこから来たのかなどを尋ねる。

「陸奥の九郎であろう。わたしの末弟だ。連れて参れ」

およそ20年ぶりの再会、さすがに懐かしい。

頼朝は、2歳のときに別れた弟がたくましく成長していることに驚き、懐かしさで胸が一杯になった。


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平家物語の群像 義経⑧大工の馬事件

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$吉備路残照△古代ロマン-鶴岡八幡宮 鶴岡八幡宮 神奈川県鎌倉市


『義経記』は、頼朝と義経のおよそ20年ぶりの再会の様子を、「共に涙にむせび給ふ。互に心のゆく程泣きて……」と記している。

ふたりは懐旧の涙に暮れつつ、力を合わせて平家を倒し源氏を再興することを誓いあった。

兄弟らしい情愛が通い合ったのは、もしかしたらこの時が初めてであり、また最後だったのかも知れない。

冷徹な政治家である頼朝にとっては、「組織論」が「兄弟愛」に優先する。

翌・養和元年(1181)7月20日、「大工の馬事件」という、兄弟の間に公の場で亀裂が入った出来事が起こった。

鶴岡八幡宮若宮の棟上式において、頼朝は、大工への褒美として与える馬の引き役を義経に命じた。

義経は、断った。

馬は2人1組で引くものだが、その場にいた顔ぶれで、自分と身分のつり合う者がいないと思ったからである。

義経にはまだ、「頼朝の実弟である自分は、御家人たちとは身分が違う」という意識があった。

しかし、頼朝は激怒して義経を叱責する。



「畠山重忠や佐貫広綱がいるではないか。卑しい役目だと思って断るか」

義経は震え上がって、御家人とともに馬を引いた。

頼朝は、「弟だからといって、義経を特別扱いはしない。御家人と同列だ」ということを居並ぶ面々に知らしめたのだ。

いわば、「義経、御家人」宣言である。


同年、平清盛が熱病で死去した。享年64。



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平家物語の群像 義経⑨公家日記デビュー

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$吉備路残照△古代ロマン-木曽義仲  木曽義仲騎馬像 富山県小矢部市埴生


頼朝と義経が、黄瀬川の陣で涙の対面をして鎌倉に引き上げたころより少し前、信濃で挙兵した木曽義仲は、平家の軍勢を蹴散らしながら北陸道を突き進んで上洛した。

       維盛⑩倶利伽羅峠の戦い

平家一門を、都から追い落とす。

義仲が入京した寿永2年(1183)7月は、一昨年(養和元年)の凶作で多くの餓死者が出ていた。

       義仲④比叡山そして入京

そこへ6万もの木曾勢が駐留したから、食料不足がいっそう深刻になる。
兵たちが食料などを求めて、乱暴狼藉を働いた。

当初、都の人々は義仲の上洛を喜んで「旭将軍」と称えたが、「これでは平家の方がまだましだった」と失望する。

寿永2年(1183)11月、義経が鎌倉に来て4年目の冬。

九条兼実の日記『玉葉』によると、義経は関八州の皇室御領の租税を納めるために、中原親能(ちかよし)とともに、頼朝の代官として京へ向かう。

ところが、義仲は二人の目的が本当に納税のためだけなのかを疑って、入京を拒んだ。

後白河法皇も、義経たちの任務を義仲に説明したが、義仲は聞き入れなかった。

ちなみに、義経が客観性の高い「公家日記」に登場するのは、これが最初である。



よって、史実にきわめて近い。

義経たちは近江(滋賀県)までやって来たが、結局、入京できずに伊勢まで引き返した。

伊勢(三重県)で、どうやら都の情勢を探っていたようだ。



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平家物語の群像 義経⑩義仲との対決へ

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$吉備路残照△古代ロマン-源頼朝  源頼朝 東京国立博物館

平家一門を都から追い落としたのは義仲だが、後白河法皇は平家追討の功績について、頼朝を第1、義仲を第2とした。

頼朝が源氏の嫡流で実力も上、と見ていたのだろう。

ちなみに、第3の功労者は彼らの叔父・行家である。

義仲が、平家とともに都落ちした安徳天皇の後継に自らが擁立した北陸宮(以仁王の遺児)を据えることを主張して、後白河や公家たちの怒りを買った。

「武士ふぜいが、皇位継承に口出しするとは何事だ」というわけだ。

       義仲⑤皇位継承への介入

そして寿永2年(1183)10月、後白河が頼朝に、「上洛して義仲を討って欲しい」という院宣を出したことで、ふたりの対立は決定的になる。

       義仲⑦後白河との対立 

院宣を受けて、頼朝は、義仲討伐のため異母弟の範頼(のりより 義経の異母兄)を大将として、6万余騎の大軍を派遣した。

頼朝は範頼と義経に遠征軍の指揮を任せ、自らは本拠地の鎌倉に腰を据えて東国の経営に専念するようになる。

この頃になると、頼朝は義経の軍人としての天才的な能力を見抜いていたと思われる。


東シナ海、波高し。「今の中国は日清戦争の頃の中国ではない」軍幹部

範頼は、伊勢で都の様子を探っていた義経と合流、二手に分かれて都を目指した。

範頼は3万5千騎を率いて近江路をとって瀬田に向かい、義経は2万5千騎を率いて伊賀路を宇治に向かう。

寿永3年(1184)正月20日、義経は宇治川に到着した。



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平家物語の群像 義経⑪宇治川の戦い前夜

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$吉備路残照△古代ロマン-木曽義仲巴  木曽義仲と巴 義仲館(よしなかやかた) 長野県木曽郡木曽町日義上町 

勢いになびくは人の常。

信濃で挙兵した義仲が平家の大軍を蹴散らしながら破竹の勢いで上洛する際は、道すがらの豪族たちがわれ先に木曾軍の旗下に集まった。

だが、寄せ集めの軍はもろい。

いったん形勢が不利になると、烏合の衆は蜘蛛の子を散らすように逃げていった。

6万騎で入京した木曾軍は、鎌倉軍を迎え撃つころには脱落者が続出して千騎あまりに激減している。

       義仲⑥混成部隊の限界

義仲は義仲四天王の今井兼平に500余騎を与えて瀬田を、根井行親(ねのい ゆきちか)と楯親忠(たて ちかただ)には300余騎で宇治を守らせ、
義仲自身は100余騎で院御所を守護した。

寿永3年(1184)正月20日、範頼は3万5千騎で瀬田を守る今井兼平勢と対峙する。

義経は2万5千騎で、宇治川をはさんで根井行親勢と向き合った。

敵は橋板を外し、対岸には楯を並べている。

川には、何本も杭を打っている。

義経は川岸近くの住人たちを立ち退かせ、民家に火をかけて焼き払い全軍を布陣させた。




そして、川べりに造らせた高い櫓に上って全軍に告げた。

「私はここで、そなたたちの戦いぶりを見ている。そして、逐一書き留めて鎌倉殿に報告する」

それを聞くと、東国武士たちはわれこそ第一の手柄を立てようと色めき立った。

「泳ぎの得意な者は浅瀬をさぐれ。身分の低い者は出世のチャンスだ。弓の得意な者は、橋桁を渡って敵を射よ。泳いで渡る者らを守れ」



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平家物語の群像 義経⑫宇治川の先陣争い

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$吉備路残照△古代ロマン-宇治川先陣争い  宇治川の先陣争い                佐々木高綱vs梶原景季(かげすえ)

義経が全軍に話し終わるや否や、さっそく名乗りを上げた若武者がいた。

「2万5千騎のうち橋桁の先陣渡りは、武蔵国住人、若輩者の平山季重(すえしげ)なり」

するとたちまち、熊谷次郎直実とその子小次郎直家ら5人が続いた。

ひっきりなしに飛んでくる敵の矢を避けながら、精兵(せいびょう:弓の名人)の彼らは敵兵に狙いを定めてさんざんに射た。

橋桁をほとんどかたまって渡っている6人に向かって、200~300人の木曾勢が矢を放つ。

6人は怖ろしくなかったか。

          維盛⑤斎藤別当実盛

この蛮勇こそ、斎藤実盛が富士川の合戦の前日、維盛に説明して維盛軍を震え上がらせ、
戦意を喪失させた東国武士の強さなのだろう。

親や子が討たれても少しもひるまず死体の山を乗り越えて戦うという東国武士と戦うことなく、
10万の維盛軍は水鳥の羽ばたきの音に驚いて潰走した。



一方、川の中では、鹿島与一という泳ぎの達者が褌ひとつになって腰に鎌を差し、手に熊手をもって、味方の馬が泳ぎやすいように木曾勢が打ち込んだ杭などを引き抜いた。

だが、まだ一人も対岸に渡ってはいない。

どうしたものか義経らが協議していると、平等院の小島ケ崎から2騎の武者が突然駆け出して、宇治川の激流に馬を乗り入れた。

世に名高い、佐々木四郎高綱と梶原源太景季の「宇治川の先陣争い」である。


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平家物語の群像 義経⑬頼朝の名馬を盗んだ男

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$吉備路残照△古代ロマン-高綱に先をこされた景季  『宇治川先陣争図』 佐々木高綱に先をこされた梶原景季 高松市歴史資料館蔵 大塚春嶺 明治時代


佐々木高綱と梶原景季(かげすえ:景時の長男)は、日頃から何かとお互いを意識し張り合っていたライバル同士。

次のようなエピソードがある。

頼朝は、「生食(いけづき)」と「磨墨(するすみ)」という有名な駿馬を所有していた。


木曽義仲討伐に京都に向かうとき、景季は頼朝に、「生食」を賜わりたいと申し出た。

頼朝は、「生食は、何かの折に私が乗る馬ぞ」と断って、「これも劣らぬ名馬だ」と磨墨を与える。

ところが後刻、頼朝は高綱に、「皆が欲しがる生食を、そなたに与えよう。その旨心得よ」と高綱に与えた。

高綱は感激して、「宇治川を真っ先に渡ってみせましょう。もし私が命を落としたら、人に先を越されたと思って下さい」


先に鎌倉を立って京都へ向かっていた景季に、高綱一行が追いついた。

景季が、先頭で「生食」を引いている高綱の郎党に尋ねた。

「その馬は、もしや……。だれの馬だ」

「佐々木殿です」

「佐々木三郎か、四郎か」

「四郎殿です」

「これは聞き捨てならぬ。この景季が、四郎ごときより軽くあしらわれるとは。殿がその気ならば四郎と差し違えて、屈強の武士ふたりを失わせて殿を困らせよう」

四郎がやって来た。



景季は組み合おうか投げ飛ばそうかと思ったが、まずは気持ちを抑えて問うた。

「佐々木殿、生食をどのようにして頂いたのか」

機転の利く四郎は、頼朝の「その旨心得よ」という言葉を思い出した。

「今度の戦いでは、宇治と瀬田の橋は外されて渡れまい。川を渡るために生食を頂こうと思ったが、貴殿が所望して断られたと聞いた」
「貴殿に許されなかった生食を、四郎ごときに賜るはずはない。そこで昨夜、生食を盗み出して来たのよ、梶原殿」

「なんだ、私が先に盗めばよかった」と、景季は先ほどの腹立ちを忘れて笑い転げた。


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平家物語の群像 義経⑭先陣を切る名誉と恩賞

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$吉備路残照△古代ロマン-馬装  馬装 (騎乗のために人と馬の準備をすること)


梶原景季は佐々木高綱に一歩先んじて、平等院の小島ケ崎から駆け出してきた。

後れをとった高綱は、景季に声をかけた。

「梶原殿、宇治川は西国一の川ですぞ。腹帯(はらおび)がほどけています。お締めになったほうが……」

「そうか」と景季は手綱を馬のたてがみに投げかけ、左右の鐙に踏んばって立ち、腹帯を解いて結び直した。

影季が腹帯を結び直している間に、高綱は脇を駆け抜け、先に馬を川へ乗り入れた。

景季は「はばかられた」と思ったかどうか、高綱に呼びかける。
「佐々木殿、手柄を立てようとするあまり不覚を取りなさるな。川底には大綱がある」

高綱は太刀を抜いて、馬の脚に絡んでくる大綱を切りながら馬を進めた。

何といっても高綱が騎乗している「生食(いけづき)」は天下一の名馬、激流の宇治川を真っ直ぐに進み、対岸に上がった。

景季の「磨墨(するすみ)」は途中から斜めに押し流され、ずっと下流から上陸した。


日本人は決してこんな蛮行はしない。「愛国無罪」という中国の教育が間違っている。同胞がこのレベルの仕返しをしないよう祈りたい。

高綱は、鐙を踏ん張りながら立ち上がり、大音声をあげる。

「宇多天皇9代目の後胤で近江国の住人・佐々木三郎秀義の四男、佐々木四郎高綱が宇治川の先陣だ」

なお、先陣争いに勝利して先陣を切った者は、1番の功労者として莫大な恩賞と名誉を手にすることが出来る。

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平家物語の群像 義経⑮後白河法皇救出

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$吉備路残照△古代ロマン-瀬田の唐橋 瀬田(勢多)の唐橋(長橋)     歌川広重画

佐々木高綱と梶原景季の先陣争いをきっかけに、畠山重忠の500余騎をはじめ2万5千騎の義経軍が一斉に対岸の敵陣へ雪崩れこんだ。

そうなると、もはや衆寡敵せず。

木曾勢は必死に防戦するが、義経軍は難なく宇治川を突破した。

義経は、鎌倉の頼朝へ宇治川での合戦の次第をくわしく記して伝えた。

頼朝は何より先に、「高綱はどうした」と使者に尋ねる。

使者は、「宇治川の先陣でした」と答えた。

義経からの書面を開くと、確かに「先陣、佐々木四郎高綱。二陣、梶原源太景季」と記されている。

義経軍は、そのまま京の都へ突入した。

勢田の橋に向かった3万5千の範頼軍は500余騎の今井兼平勢と対峙していたが、
兼平は宇治方面での味方の敗戦を知ると退却した。

義仲と兼平は近江(滋賀県)の粟津で合流し北陸へ脱出をはかるが、範頼軍が襲いかかる。

義仲軍は奮戦するが次々に討たれ、を逃すと、義仲と兼平2騎になった。

-------義仲⑬さてこそ粟津のいくさはなかりけれ

-------④あつぱれ、よからう敵がな

義経は後白河法皇を守ろうと5、6騎を率いて院の御所・六条西洞院に駆け付けた。

門前で馬から降りて、門を叩き、大音声で告げる。

「鎌倉の源頼朝の弟・九郎義経が、御所の守護のために駆け付けました。門を開けて下さい」

後白河は、義経を中庭の端に呼び、合戦の模様を尋ねた。



「頼朝が木曽の狼藉を鎮めるため、範頼と義経に6万騎を与えて上洛させました。範頼勢は勢田方面から来ますが、まだ一騎も姿を現していません。
義経は宇治橋を攻め、御所を守護するために馳せ参じました。義仲は賀茂河原を北の方へ逃げました。今ごろは、討ち取られているでしょう」


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平家物語の群像 義経⑯頼朝とのすれ違い

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$吉備路残照△古代ロマン-鵯越の逆落とし  鵯越の逆落とし  『源平合戦図屏風』の「一ノ谷」

源氏がいとこ同士で争っている間に、平家は西国で勢力を回復した。

寿永2年(1183)、讃岐(香川県)の屋島に本拠地を構え、福原(神戸)に渡って、一の谷に城郭を築き生田の森を正門とした。

山陽道8カ国と南海道6カ国の計14か国を討ち従えて、10万騎が集まったという。

「清盛のころの栄耀栄華よ再び!!」


元暦元年(1184)1月、後白河が平家追討の院宣を発令。

鎌倉軍は二手に別れ、範頼軍(大手軍6万騎)が生田の森方面から、義経軍(搦手軍1万騎)が一の谷方面から攻めた。

だが、何度も突撃するが平家方から雨あられのような矢を浴びて撤退、戦局は膠着状態に陥った。

この戦況を一変させたのが、義経の奇策である。

同年2月7日、別働隊のうちの70騎を率いて、鵯越の峻険な崖から逆落としをしかけて平家の陣営を急襲した。

平家方は奇襲によって大混乱になり、われ先に四国の屋島へ逃げていった。

鎌倉勢は平家一門の名のある多くの武将を討ち取る戦果を挙げ、範頼は鎌倉に義経は京都に凱旋する。

義仲追討と一ノ谷の戦いでの目覚ましい活躍によって、それまで無名だった義経が歴史の表舞台に登場した。

合戦後、朝廷の小除目(こじもく:臨時の人事)が行われ、頼朝の推挙によって範頼ら源氏3人が国司に任ぜられたが、任官を願っていた義経の名はなかった。

同年8月6日、義経は頼朝の推挙を得ずに、法皇によって左衛門少尉と検非違使少尉(判官)に任官し、従五位下に叙せられ院への昇殿を許される。

頼朝には、「任官は自ら望んだものではなく、法皇が義経の勲功を無視できないとして任じられたので、固辞できなかった」と報告した。

頼朝は、「九郎がわが意向に背くのは今度ばかりではない」と激怒。

義経を平家追討から外した。


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海上自衛隊の艦隊と中国海軍の艦隊が、東シナ海に展開しているようです。おそらく米軍の潜水艦も。一触即発の危機か。

平家物語の群像 義経⑰平家追討へ再登板

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$吉備路残照△古代ロマン-源義経騎馬像  源義経騎馬像 徳島県 小松島市旗山


寿永3年(1184)8月、頼朝は、範頼に山陽道と九州への遠征を命じた。

平家討伐のためではなく、頼朝と敵対して平家に味方している西国武士らを討ち、平家一門を瀬戸内海に孤立させるためだ。

だが、範頼軍はのっけから兵糧と兵船の調達に苦しみ、進軍が滞ってしまった。

一方、平家討伐から外されて京都の治安維持という閑職で、髀肉の嘆をかこっていた義経は、頼朝の命で河越重頼の娘、(さと)御前を正室として迎えた。

頼朝が義経を坂東武士の娘と一緒にさせたのは、卓越した軍略家である義経が、もし公家の娘と結婚して朝廷と血縁的に結びついたら面倒なことになりかねないと警戒したからであろう。

「大天狗」の後白河法皇に、軍事部門のトップとして仕えるようなことにでもなったらどうなるか。

「いくさに強い」義経の旗下に、途方もない数の武士が馳せ参じるかも知れない。

そうなれば、頼朝の意図する、朝廷から独立した武士のための鎌倉幕府創設など夢物語になってしまう。

ちなみに愛妾の静御前は有名だが、義経はのちに頼朝に追われて奥州へ落ちたとき郷御前を伴っている。

夫婦の相性は良かったようだ。




九州遠征につまずいた範頼は、頼朝に泣き言を並べた書面を書き送っている。

「食糧が足りない」、「武士たちがいくさに倦んで、坂東に帰りたがっている」、「船が足りない」

元暦2年(1185)2月、頼朝はゆえあって平家討伐の任を解いていたが、鎌倉軍の切り札である義経の再起用を決めた。



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平家物語の群像 義経⑱義経と非戦闘員

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$吉備路残照△古代ロマン-渡辺橋 堂島川に架かる渡辺橋

元暦2(1185)年2月16日、義経は、平家一門の拠点・屋島を攻めるため、摂津(大阪府)の
渡辺(大阪市の渡辺橋あたり)に兵船を揃えた。

しかし、纜(ともづな)を解いていると急に激しい風が吹き荒れ兵船が破損したので、出港をとりやめる。

その夜、義経が郎党に尋ねた、

「われらは船いくさには、慣れていない。どうしたものか」

すると、軍目付(いくさめつけ) の梶原景時が、義経の前に進みでて、「船に逆櫓(さかろ) を付けましょう」と進言した。

義経が、「逆櫓とは何だ?」と問う。

「馬は前後左右、意のままに操れます。だが、船はそうはいきません。船首と船尾 に櫓(ろ:船を進める道具) をつけて、どの方向へも船を進めるようにしましょう」

「門出だというのに縁起でもない。いくさは一歩も引かない気持こそ大事。戦況が不利になれば引くこともあるが、逃げ支度のために逆櫓をつけることなど、もっての外。そなたの船には逆櫓でも、逃げ櫓でもつけよ」

「大将とは進むべき時に進み、引くべき時には引くもの。その上で、勝利を収めてこそ立派な大将です。がむしゃらに進むのは、ただの猪武者。良き大将とはいえません」

「猪や、鹿のことは知らぬ。いくさは正面から攻めて勝ってこそ、心地よい」と一蹴した。

坂東武者らは景時を恐れて高笑いこそしないが、お互い目配せしてせせら笑っている。

義経は、「兵船の修理が終わった。魚と酒をもちよって、祝いたまえ」と、酒宴をするふりをして、
兵船に兵糧米や武具を積み込んで、最後に馬を載せた。

そして、「すぐに船を出せ」と命じると、船頭や水夫が、「今は順風ですが、少し風が強いようです。
沖ではもっと強い風が吹いていることでしょう」と渋った。

すると、義経は激怒する。

「野山の果てで死に、海や川で溺れることも全て前世の宿命なのだ。向かい風のときに船を出せというのなら、義経が間違っている。追い風ではないか。追い風が強いからと、これほど大事な時に船を出さないとは。早く出せ」

郎等らに、「船を出さなければ、船頭や水夫どもを射殺せ」と命じる。

伊勢義盛、佐藤嗣信、佐藤忠信、江田源三、熊井太郎、武蔵坊弁慶ら、義経旗下の一騎当千の猛者が、「御命令だ。早く船を出せ。出さねば、残らず射殺すぞ」と、
矢をつがえた弓を持って、船頭や水夫の周囲を駆け回った。





どうも義経は、「勝つためには何でもあり」だったようだ。奇策はどんなにめぐらしても構わないが、
武士として人としてやってはいけない卑怯な手を使っている。

渡辺では、たまたま船頭と水夫を殺してはいないが、壇ノ浦では殺している。平家方の兵船の動きを止めて自由を奪うために、非戦闘員である船頭や水夫を射殺したのだ。

不文律とはいえ、当時でも、武士の風上にも置けない卑劣な戦術だったようだ。

壇ノ浦の戦いが源平の最終決戦だったから義経にとっては幸運だったが、もし次の海戦があれば、
どこの水軍も源氏には船を出さなかっただろうという。


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