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Channel: 吉備路残照△古代ロマン
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平家物語の群像 景時⑥逆櫓論争で義経と対立

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$吉備路残照△古代ロマン-逆櫓の松 逆櫓の松趾碑 大阪市福島区福島


一ノ谷の戦いは、義経の奇襲戦法もあって源氏側の圧倒的勝利に終わるが、この戦いで、景季 (かげすえ) は自害直前の平重衡 (しげひら) を生け捕りにした。

       平重衡②盛長はわが馬召されなんとや

景時は、重衡を鎌倉へ護送して頼朝に引きあわせるが、そのとき、敵の総大将・頼朝に対して、捕虜の身でありながら一歩も引かない重衡の堂々とした態度に、
「あっぱれな大将軍であられる」 と胸を熱くした。

頼朝自身も、旧知ではあるが重衡の人物に感服する。

子供のころは頼朝が平家の捕虜だったが、時には重衡兄弟と一緒に遊んだのではないだろうか。そして、大人になって立場が逆転して再会した。

        平重衡⑰重衡、頼朝と対面

子供のころに一方が捕虜だったという点では、織田信長と徳川家康の関係を髣髴とする。
こちらは、再会後、対立を乗り越えて同盟に発展するが。 

        夢まぼろしの如く⑤天下布武

4月、景時は土肥実平とともに上洛して、広大な平家所領の没収にあたった。

8月、範頼 (のりより) が平氏討伐のため鎌倉を出発し、中国地方から九州へ渡る遠征に出た。平家を完全に滅亡させるためである。
なお、義経は頼朝の勘気を受けて平家討伐から外され、京都守護という閑職に就いていた。

景時は、実平とともに範頼の相談相手として西国遠征に従っている。



「平成24年7月九州北部豪雨」 により柳川市周辺は冠水状態のようです



範頼軍は兵糧や兵船の調達に難渋して、なかなか平家殲滅の目途がつかなかった。

やはり、軍事天才の出番が回ってくる。

元暦元(1185)年正月 しびれを切らした頼朝は義経を起用、讃岐国屋島の平家の本拠地を衝かせることにした。

『平家物語』 によると、義経の軍目付 (いくさめつけ:軍監) を務めていた景時は、兵船に逆櫓 (さかろ) をつけて、船の進退を自由にすべきだと提案した。

すると、義経は、「初めから逃げ支度をしてどうする」 とはねつける。
景時にしてみれば、「臆病者」 といわれたのも同然である。


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平家物語の群像 景時⑦大将と個人プレー

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$吉備路残照△古代ロマン-源義経騎馬像 源義経騎馬像(騎馬像では日本一の大きさ) 徳島県小松島市芝生町旗山


「よき大将軍と申すは駆くべき所をば駆け、引くべき所を引き、身を全うして敵を滅ぼすを以てこそ、
よき大将軍とはしたる候ふ。さやうに偏趣 (強情) なるをば、猪 (いのしし) 武者とてよきにはせず」 

景時がややきつくたしなめると、義経が反論した。

「猪鹿 (いのしか) は知らず。敵はただ平攻めに攻めて (攻めまくって) 勝ちたるぞ、心地はよき」

ふたりの部下たちも頭に血がのぼって、あわや同士討ちかと思われたが、さすがに実力行使には至らなかった。

義経は暴風の中をわずか5艘150騎で出撃、
平家陣営を急襲して、あっという間に屋島を落とした。

瀬戸内海をはさんで源氏軍と対峙していると思い込んでいる平家の面々は、海上の見張りは怠らないが、
後ろの山から義経勢が襲ってくるとは夢にも思っていない。

敵の虚をつくところが、義経が天才と呼ばれるゆえんか。

敵が油断している所を、つまり相手が思ってもいない時に、しかも予想さえしていなかった方面から、信じられないスピードで突撃する。

一の谷の戦いにおける、鵯越の逆落としと似たような戦法だ。

     二位尼⑩重衡からの手紙


こうして、平家一門は木曽義仲の勢いによって都を追われ、義経の奇襲によって今にも息の根を止められようとしている。

景時の本軍140余艘が屋島に到着した時には、平家はすでに海上の船に逃れていた。

決着後に着いた景時は、六日の菖蒲 (むいかのあやめ:時機おくれで役に立たない 十日の菊) とからかわれた。

しかし、どうだろう。

逆櫓論争は、戦術的な常識論と規格外の天才性との論争であって、結果から、景時を六日の菖蒲、と揶揄するのは公平ではないような気がする。




敵方を圧倒する大軍を擁していようと、「大将の首を取られたら負け」 の世界で、その大将が真っ先に敵陣に切り込むべきではない、と凡庸なわたしなどは思う。

後世、桶狭間の戦いで今川軍は織田軍よりケタ違いの軍勢を誇っていたが、義元が討たれた時点で、敗北が決したのだ。

      夢まぼろしの如く⑤天下布武    

大将と個人プレーは似合わない。

だが、義経の個人プレーが平家を倒したのかも知れない。


寿永4年3月、壇ノ浦海戦の火ぶたが切られようとしていた。

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平家物語の群像 景時⑧義経と景時の先陣争い

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$吉備路残照△古代ロマン-倶利伽羅峠から壇ノ浦まで 倶利伽羅峠から壇ノ浦まで


元歴2年3月24日午前6時、長門国の赤間関壇ノ浦で、源平は矢合せ (開戦の合図) をすることが決まった。

ところが当日、再び、義経と景時が激しく対立した。

梶原進み出でて、「今日の先陣をば、景時に賜び候へかし (お任せを) 」
判官、「義経が、なくばこそ (いなければ) 」

梶原、「正なう候ふ (それはおかしい) 。殿は、大将軍にしてましまし候ふものを (いらっしゃる)」
判官、「それ思ひも寄らず。鎌倉殿こそ、大将軍よ。
義経はただ軍の奉行を承つたる身なれば、ただ和殿原 (貴殿ら) と同じ事 (身分) よ」

梶原先陣を所望しかねて、「天性、この殿は侍の主には成り難し」とぞ呟きける。
判官、「日本一の烏滸 (おこ:馬鹿)の者かな」 とて、太刀の柄に手を懸け給へば、
梶原、「鎌倉殿より外は主をば持ち奉らぬものを (主は頼朝だけ)」 とて、これも太刀の柄に手をかけける。

父が気色 (様子) を見て、嫡子源太景季と次男平次景高、同三郎景家父子主従14~5人、打物 (刀) の鞘 (さや) を外して、父と一所に寄り合ひたり。



判官の気色を見奉つて、伊勢三郎義盛、奥州の佐藤四郎兵衛忠信、源八広綱、江田源三、熊井太郎、武蔵坊弁慶などいふ一人当千の兵 (つわもの) 共、
梶原を中に取り籠めて、「我討ち取らん」 とぞ進みける。


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平家物語の群像 景時⑨義経のトラウマ

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$吉備路残照△古代ロマン-源義経 源義経 中尊寺所蔵 (戦国or江戸時代作)


先陣争いなど中堅クラスが功名を競ってのことかと思いきや、トップと大幹部が斬り合いに発展するほどの大事だったとは。

お二人さんは後方に控えて、戦場全体の成り行きを見渡しながら、注進してくる部下に的確な指示を出しなさいよ。

自分が、切り込み隊長になってどうするんだろう。

先の義経の発言から分かるように、
義経は、自分は大将軍ではなく、景時ら頼朝の家人と同じ立場だと思っている。大将軍は、鎌倉殿だけだと。

だが 「名称」 はともかく、戦場ごとに全体の統括者がいなければ困るだろう。頼朝がいなければ範頼、範頼が他で戦っていれば義経が 「大将軍」 だ。

なぜ、義経は大将軍という意識をもてなかったのだろうか。

平家の公達には、知盛や重衡ら弟たちにも、各戦場において 「大将軍意識」 があったと思う。

かつて、義経は、兄頼朝が打倒平家の旗を揚げたことを知って、平泉から鎌倉へ馳せ参じるが、そのとき、頼朝から弟としてではなく家人 (家来) として扱われている。

率いてきた部下の少なさと、母常盤の出自によるという。

そのことがトラウマになっているとすれば、切ない話だ。



景時の周りには息子たちや家人が14~5名。

彼らを伊勢義盛、佐藤忠信、武蔵坊弁慶ら百戦錬磨の義経の部下たちが取り囲んだ。

あわや、という時に、義経には三浦介義澄がすがりつき、景時には土肥次郎実平がすがりついて両者を分けた。

「これほどの大事を前に同士討ちなどしていては、平家を勢いづかせましょう。それに、頼朝殿のお耳にでも入ったら無事では済みますまい」


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平家物語の群像 景時⑩逆櫓論争と先陣争いは史実か

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$吉備路残照△古代ロマン-壇ノ浦の戦い 壇ノ浦の戦い戦況推移図


『平家物語』 に記されている、義経と景時が激しく対立した 「逆櫓論争」 と 「先陣争い」 の史実性については疑問符がついている。

摂津の渡辺に集結した源氏の兵船が四国の屋島に向かう場合、これはかなりの距離だから、夜陰に紛れてまっすぐに進めばいいわけで、わざわざ時間と手間をとって、反対方向に船を進めるための逆櫓をつける必要はないというのだ。

もう一つ。

先の説と関連するが、「逆櫓論争」 と 「先陣争い」 は、ともに壇ノ浦の戦いにおける出来事だったとする考え方がある。

逆櫓は、屋島の戦いのときには必要なかったが (結果的には、義経の陸地での奇襲成功によりほとんど海戦はなかった)、壇ノ浦では重宝するだろうという説だ。

なぜなら、壇ノ浦の戦いは、瀬戸内海でも極端に狭くなっている海上で源平両軍が最後の決戦をしたのだが、
この海戦には、摂津の渡辺水軍や伊予の河野水軍、紀伊の熊野水軍などが源氏側について参戦している。

平家方には、肥前松浦党の100余艘と筑前山鹿秀遠の300余艘がついた。

こうして狭い海域に、源氏軍840艘と平氏軍500艘、計1340艘がひしめいているのだ。前後に船を操れたら戦いやすいだろうし、戦況が不利になったとき逃げ足が速いだろう。


では、なぜ 「壇ノ浦」 での逆櫓論争を、「屋島」 でのことにしたのか。これには特段の理由はなさそうだ。

単に、文章構成上の工夫ではないだろうか。

聴衆や読者の興味を引く義経と景時の対立話を、ふたつとも 「壇ノ浦」 に詰めこむより、ひとつを 「屋島」 に振り分けたほうが、物語作りとして気が利いている。 

なにより、「屋島」 は、義経の奇襲によって簡単に片が付いたので、エピソードに乏しい。一方、「壇ノ浦」 は平家滅亡の時とあって、逸話に事欠かない。

物語になりにくい 「屋島」 を、逆櫓論争で補強した。

そんなところではないだろうか。 




「判官殿 (義経) は功に誇って傲慢、武士たちは薄氷を踏む思いであります。そば近く仕える私がお諌 (いさ) めしても、怒りを受けるばかり。刑罰すら受けかねません。合戦が終わった今、すぐにも東国へ帰りとう存じます」(要旨)

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平家物語の群像 景時⑪梶原景時の讒言

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$吉備路残照△古代ロマン-吾妻鏡 『吾妻鏡』 (吉川本) 右田弘詮の序文


壇ノ浦の戦いの戦勝報告の中で、景時は頼朝に上記のようなことを書き送っている。
鎌倉幕府の公式記録 『吾妻鏡』 に収めてある。

九郎判官義経殿は独断専行でわがままで、われわれは困り果てているという趣旨である。 

これが、いわゆる 「梶原景時の讒言 (ざんげん 告げ口) 」 と呼ばれるものだ。

『吾妻鏡』 はまた、「義経の独断とわがままな振る舞いを恨みに思っていたのは、景時だけではない」 とも記している。

実際、景時以外の義経に同行していた諸将も、だれひとり頼朝に対して義経を弁護していないようなのだ。

戦場で大軍を動かす 「大将軍意識」 をもてなかった分、
陰にこもった 「源氏の御曹司」 とでもいうような意識が働いて、諸将との間に壁を作ったのだろうか。

そういえば、後日、頼朝と決裂した義経が、後白河法皇から頼朝討伐の院宣を得て挙兵したときも、
朝敵・頼朝を討つ官軍であるにもかかわらず、応じてきた武士はほんの僅かしかいない。

後世の人気と、在世当時の人望には大きな隔たりがあるようだ。

元暦2年9月、梶原景季 (かげすえ 景時の嫡男) が上洛して、源行家追討の命令を伝えるために義経の邸を訪れると、義経は病と称して面会を断った。

一両日後、改めて面会に行くと今度は通されたが、義経は脇息にもたれて灸をすえ衰弱した様子。

体力が回復するまで、行家追討は待ってくれるよう頼んだ。





鎌倉に戻った景季が、頼朝に義経の様子と言葉を報告すると、景時が頼朝に言上した。

「義経殿が面会を一両日遅らせたのは怪しい。
その間に食事を断って、わざと衰弱してみせたのでしょう。行家殿と通じているに違いありません」

土佐坊昌俊 (とさのぼう しょうしゅん) が、義経暗殺に派遣された。

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平家物語の群像 景時⑫義経、挙兵失敗

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$吉備路残照△古代ロマン-土佐坊昌俊と弁慶 弁慶が土佐坊を自分の馬の背に乗せた図 歌川国芳


文治元(1185)年10月17日、土佐坊昌俊は83騎で、京都の義経の邸・六条室町亭を襲撃した。
義経は自ら応戦しているうちに、行家の軍勢がやってきた。

昌俊は鞍馬山に逃げ込むが、義経の郎党に捕らえられ、26日、六条河原で梟首 (きょうしゅ さらし首) にされた。

襲撃翌日の18日、義経は後白河法皇から頼朝追討の院宣を受け取ると、行家とともに挙兵するが、
義経の旗の下に馳せ参じたのは、わずかに数百名。

一の谷から屋島、壇ノ浦と、平家を滅亡に追い込んだ華やかな軍歴をもつ義経にしては無残な数字だ。

いくさ上手だけでは、人 (武士) は集まらないということか。これでは、鎌倉に攻め込むなど夢のまた夢のそのまた夢。


景時の讒言、と呼ばれるものは他にもある。

土佐国の夜須行宗(やすゆきむね) が壇ノ浦の戦いでの恩賞を願いでてきたとき、景時が、「夜須という者の名など聞いたことがない」 と申し立てて訴訟になったが、
証人が現われ、夜須の戦功が明らかになり景時は敗訴した。

罰として、景時には鎌倉の道路を補修するよう命じられた。

この一件で、鎌倉ではすでに民主的な裁判が機能していて、頼朝の側近さえ敗訴するということが分かる。


「日米安保が…」「地位協定が…」と、国民を守るために米国と交渉しようともしない歴代政権。相変わらずアメリカにNO!!といえない。

梶原景時と対比される御家人に畠山重忠がいる。例の二項対立である。
「悪人で傲慢な景時」に対して「善人で謙虚な重忠」

一の谷の戦いの時に、次のような話がある。

ご存知の方も多かろう。

義経から鵯越の逆落としの作戦が伝えられた。急な崖を、馬で一気に下ろうというものだ。重忠だけは馬から降りた。

「馬が可哀そうだから、自分が馬を背負って下る」


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平家物語の群像 景時⑬景時は、石田三成か

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$吉備路残照△古代ロマン-畠山重忠  鵯越えで馬を背負う畠山重忠 歌川国芳画 江戸時代

文治3(1187)年、伊勢国の沼田御厨(みくりや)で、重忠の代官が不正をはたらいたため、重忠の身柄は囚人として、千葉胤正(たねまさ)に預けられた。

律儀な重忠は、代官の罪を恥じて絶食する。

頼朝は、重忠の人格と武勇を惜しんでほどなく赦免した。

重忠は武蔵国の自分の屋敷に戻ったが、
景時は、重忠が囚人として千葉に預けられたことを恨みに思って謀反を企てていると、頼朝に讒言した。

景時はそのころも軍監的な役職 (監視役) に就いていたのかどうかはともかく、これでは同僚に総スカンを食うだろう。

豊臣政権下の石田三成のような役回りか。頭の切れる能吏だが、疑い深くて包容力を欠き、上にはひたすら忠実。

頼朝が重忠の様子を探るため使者を遣ると、恥辱と感じた重忠は自害しようとするが、使者が押しとどめて、申し開きをするため鎌倉へ行くよう説得した。

景時が取り調べ役となったが、重忠は断固として身の潔白を主張、頼朝は疑いを解いた。人望家の重忠を陥れようとしたとして、景時は御家人たちから憎まれる。

一方では、景時は都築経家、金刺盛澄、城長茂、曾我兄弟の赦免を願い出ることもしている。


民主党の政治家は、「説得」という言葉をむなしく多用するが、山口県民や沖縄県民を「説得」する前に、アメリカを「説得」すべきだろう。

文治5(1189)年7月、奥州合戦 (奥州征伐) に景時父子も従軍。藤原泰衡は敗走して殺され、
ここに、奥州に栄華を誇った藤原氏はあっけなく滅びた。

戦後、景時が捕虜になった泰衡の郎党・由利八郎を取り調べたが、景時の傲慢な態度に由利は怒って、取り調べに応じようとしなかった。


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平家物語の群像 景時⑭景時は、明智光秀か

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$吉備路残照△古代ロマン-和田義盛 和田義盛  初代侍所別当                『前賢故実』 (江戸時代)


景時に代わって取り調べにあたった畠山重忠が礼儀正しく接すると、由利八郎は感激して快く尋問に応じた。

「先ほどの高慢ちきな御仁とは、雲泥の差だ」

「善人で謙虚」な重忠に対して「悪人で傲慢」な景時だが、なかなかの教養人で和歌も詠む。

建久元(1190)年、頼朝が伊豆に流されて以来、初めて上洛するとき、景時も随行した。途中、遠江国の橋本宿で遊女らを侍らせての酒宴で、両者は和歌をやりとりした。

『沙石集』には、奥州合戦の際に、ふたりが交わした和歌が収められている。

建久2(1191)年、公卿歌人・徳大寺実定死去の記事に、景時と弟の朝景が実定から和歌を学んでいたとの記述が見える。

鎌倉幕府創設のころ、きちんとした文章を書ける坂東武者はほとんどいなかった。

      景時④広常暗殺の真相

文章を書けて和歌をたしなむ景時は、頼朝にとって余人をもって代えがたい存在であったろう。

織田政権下、信長が幕府や朝廷との折衝を任せた明智光秀の立場と通じる所があるといえば、連想の飛ばし過ぎか。

    人間模様 (義昭・信長・光秀) 光秀と秀吉



         何をか言わんや、である


建久3(1192)年、景時は和田義盛に代わって侍所 (さむらいどころ 御家人を統制する役所) 別当 (長官)に就任した。

『吾妻鏡』には、景時が一日だけでも別当になりたいと義盛に懇願、一日位ならと交替すると、
景時が奸計をもって別当職を奪ったと記されている。

しかし、侍所別当という最重要閣僚がこのような軽い経緯で代わるはずもない。

頼朝の意向による人事と考えるのが妥当であろう。

戦乱が収束して政治の季節になると、武人一点張りの義盛より、武勇だけでなく実務能力に長け、きちんとした報告書などを作成できる景時が適任になったのだと思う。

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平家物語の群像 景時⑮梶原景時の変

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$吉備路残照△古代ロマン-梶原景時万福寺 梶原景時 万福寺(菩提寺)蔵      ……東京大田区馬込

正治元(1199)年正月、頼朝が急逝し、嫡男の頼家が家督を継いだ。

だが、頼朝の独裁に不満が募っていた御家人たちにより、頼家が将軍に就いて3カ月後には訴訟の採決権を奪われ、13人の重臣による合議制がしかれた。

頼朝につづいて頼家も、「一の郎等」として頼みとしていた景時も、合議制に加わっている。

『吾妻鏡』によると、その半年後、侍所にやってきた結城朝光(ゆうきともみつ)が、ひとしきり頼朝の思い出話をしたあと、

「忠臣二君に仕えずというが、頼朝殿が亡くなったときに出家すべきだった。今は薄氷を踏む思いだ」と語った。

2日後、阿波局 (北条時政の娘 源実朝の乳母) が朝光に、「先日の発言が謀反の証拠だと、梶原景時が将軍に讒言した。あなたは殺されますよ」と告げた。

驚いた朝光は、三浦義村に相談。

和田義盛らに呼びかけて鶴岡八幡宮に集まって協議。

景時を恨んでいる公事奉行の中原仲業(なかのり)に、景時糾弾状の作成を依頼した。

鎌倉幕府内部における、権力闘争の幕開けである。

正治2(1200)年正月、鎌倉を追われた景時は、京都を目指して一族郎等とともに領地の相模国一ノ宮を発った。

土御門通親や徳大寺家といった公家社会と縁故のある景時は、朝廷に仕えようとしたのだろうか。

『吾妻鏡』は、景時が上洛して西国の兵を集め、武田有義(甲斐源氏)を将軍にたてて反乱を企てたとしている。



日本列島の上空を、米軍機がわが物顔で飛び回っていることを改めて知らされます


いずれにしろ、上洛途上、在地武士の襲撃を受けて、梶原一族は滅亡した。

『吾妻鏡』は、景時の死に関して、
「二代にわたる将軍の寵愛をいいことに、傍若無人な振る舞いが多く、積年の悪事が身を滅ぼした」と記している。

いくつかの権力闘争を経て、ライバルたちを倒した北条氏が執権として実権を握るが、『吾妻鏡』は、北条時代に編纂された 「鎌倉幕府の公式記録」 である。


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平家物語の群像 弁慶①京の五条の橋の上

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$吉備路残照△古代ロマン-牛若丸、弁慶像  牛若丸と弁慶像
   京都 五条大橋

京の五条の橋の上、大のおとこの弁慶が、長い薙刀ふりあげて、牛若めがけて切りかかって以来、
ふたりの君臣の交わりは、ついに終生のものとなった。

平泉の衣川館で、「弁慶の立往生」 と語り継がれる壮絶な最期を遂げるまで、
「身にそう影のごとく」 常に行動を共にしている。

講談や歌舞伎などでは、義経に仕える怪力無双の荒法師として大車輪の活躍だ。

人気も、義経に劣らず高い。

『平家物語』によると、熊野別当 (熊野三山を統括する世襲制の役職) 湛増 (たんぞう) の子で紀伊国出身だが、詳細は分からない。

和歌山県の田辺市は、田辺こそが弁慶の生誕地であると観光案内の資料などに紹介している。

  第6回 田辺・弁慶映画祭 11/2~4  紀南文化会館

母は、二位大納言の娘・鶴方姫

『義経記』は、右大臣藤原師長と婚約していた鶴方姫が、病気平癒祈願のため熊野権現に参詣したとき、湛増が横恋慕して強奪したと記している。

母親の胎内に18カ月(3年説も)いて、生まれた時はすでに2、3歳児の体つき。髪は肩をかくすほどに伸び、奥歯も前歯も生えそろっていたという。

父親の湛増は、この子は鬼子だとして殺そうとしたが、叔母に引き取られ鬼若と名づけられて、京で育てられた。

鬼若は比叡山に入れられるが乱暴が過ぎて追い出されると、自ら剃髪して武蔵坊弁慶と名乗った。




それから、四国や播磨国などを渡り歩くが、やはり乱暴を繰り返す。播磨では、書写山圓教寺 (西の比叡山)  の堂塔を炎上させてしまった。

やがて、弁慶は京で千振りの太刀を奪おうと願を立てる。

通りかかった帯刀の武者と決闘して太刀999振りを集めたが、あと1振りということころで、笛を吹きながら五条大橋を歩いて来る稚児姿の牛若丸と出会った。


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平家物語の群像 弁慶②牛若丸の千人斬り

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$吉備路残照△古代ロマン-橋弁慶山 橋弁慶山 京都祇園祭


稚児でもあるし見逃そうと思ったが、よく見ると腰にみごとな太刀を帯びている。

「あの立派な太刀をいただくか」 と挑みかかると、
稚児は、五条大橋の欄干を、前後左右にヒラリヒラリと飛び上がって、身をかわしざまに大の男を打ち負かした。

弁慶は降参して、生涯の忠誠を誓った。

異説がある。

太刀を集めていたのは、実は牛若丸のほうで、父義朝の供養のため、千振りの太刀を奪う願を立てていた。

これを 「牛若丸の千人斬り」 という。

弁慶は、武者を次々に襲っては太刀を奪っているという 「人斬り」 を討ち取ろうと、五条大橋にやってきた。

そして、戦ったが、手も足も出ない。

そこで、人斬りこと牛若丸の真意を聞いて心を打たれ、終生の家来になったというものだ。

能や狂言、神楽などで演じられる 「橋弁慶」 は、この話である。




対決の場所にも、諸説ある。

五条の大橋とするのは、明治時代の児童文学者・巌谷小波 (いわや さざなみ) の 『日本昔噺』 によったものだ。

尋常小学唱歌の 「牛若丸」 も、『日本昔噺』 に従っている。


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平家物語の群像 弁慶③義経と景時の論争

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$吉備路残照△古代ロマン-弁慶像 弁慶像 JR紀伊田辺駅前


その後、弁慶は義経の忠実無比の家来として縦横に活躍し、平家討伐に功名を立てる。

義経が、兄の頼朝と対立して都を落ちるときにも同行。

山伏姿に身をやつした苦難の逃避行のときは、もちまえの智謀と怪力で、義経一行を奥州平泉まで導いた。


元暦2(1185)年2月16日、義経は、平家一門の拠点・屋島を攻めるため、摂津の渡辺に兵船を揃えた。

出港のため、纜(ともづな)を解いていると急に激しい風が吹き荒れ、兵船が破損。

その日は、出港をとりやめた。

「われらは船いくさには、慣れていない。どうしたものか」

軍目付(いくさめつけ) の梶原景時が、義経の前に進みでて、「船に逆櫓(さかろ) を付けましょう」と進言した。

義経が、「逆櫓とは何だ?」と問うと、

「(原文) 馬は駆けんと思へば駆け、引かんと思へば引き弓手(ゆんで:左手) へも馬手(めて:右手)へも容易う候ふ。

舟はさやうの時、きつと押し廻す(旋回させる) が大事(むずかしい) のものにて候へば、艫舳(じくろ:船首と船尾) に櫓(ろ:船を進める道具) を立て違へ脇楫(わきかじ) を入れて、何方へも(どの方向へも) 安う押し廻すやうにし候はばや」

「(現代語訳) 馬は、前後左右に走らせることが出来ます。船は、前にしか進めません。船首と横にも櫓をつけて、どの方向へも進めるようにしましょう」

「(原文) まづ門出の悪しさよ。軍といふは一引きも引かじと思ふだに、あはひ悪しければ引くは常の習ひなり。況して、さやうに逃げ設けせんになじかはよかるべき。
殿原の舟には逆櫓をも返様櫓をも百丁千丁も立て給へ。義経はただ元の櫓で候はん」

「(現代語訳) 門出だというのに縁起でもない。いくさは一歩も引かない気持こそ大事。戦況が不利になれば引くこともあるが、逃げ支度のために逆櫓をつけることなど、もっての外だ。そなたの船には逆櫓でも、逃げ櫓でもつけよ」

景時は重ねて、進言した。



「大将というものは、進むときは進み引くべきときに引くもの。その上で、敵を滅ぼしてこそ良き大将です。融通の利かぬことを言うのは猪武者で、立派な大将とはいえません」

義経は、「猪や、鹿のことは知らぬ。いくさは正面から攻めて勝ってこそ、心地よい」と一蹴した。

居並ぶ東国の武者らは景時を恐れて高笑いこそしないが、お互い目配せしてせせら笑っている。


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平家物語の群像 弁慶④船頭や水夫どもを射殺せ

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$吉備路残照△古代ロマン-源平逆櫓論  浮世絵 『源平逆櫓論』   月岡芳年 

義経が、「さぁ、者ども。兵船の修理が終わった。魚と酒をもちよって、祝いたまえ」と、酒宴をするふりをして、
兵船に兵糧米や武具を積み込んで、最後に馬を載せた。

そして、「すぐに船を出せ」と命じると、船頭や水夫が、「今は順風ですが、少し風が強いようです。
沖ではもっと強い風が吹いていることでしょう」と渋った。

すると、義経は激怒。

「沖へ出て、風が強いからと出陣を止めるわけにはいくまい。野山の果てで死に、海や川で溺れることも、すべて前世の宿命なのだ。向かい風のときに船を出せというのなら、義経が間違っている。追い風ではないか。
追い風が少し強いからと、これほどの大事に船を出さないとは。なぜ、そのようなことをいう。早く、出せ」

郎等らに、「船を出さなければ、船頭や水夫どもを射殺せ」と命じた。

伊勢義盛、佐藤嗣信、佐藤忠信、江田源三、熊井太郎、武蔵坊弁慶ら、義経旗下の一騎当千の猛者が、
「殿の御命令だ。早く船を出せ。出さねば、残らず射殺すぞ」と、矢をつがえた弓を持ち、船頭や水夫の周囲を駆け回る。


どうも、義経は、「勝つためには何でもあり」 だったようだ。奇策はどんなにめぐらしても構わないが、
武士として人としてやってはいけない卑怯な手を使う。

ここ摂津の渡辺では、たまたま船頭と水夫を殺してはいないが、壇ノ浦では殺している。
平家方の兵船の動きを止めて自由を奪うために、非戦闘員である船頭や水夫をまず射殺した。

これは、さすがに不文律とはいえ、ルール違反だったようだ。

また、壇ノ浦の戦いが源平の最終決戦だったから義経にとって幸運だったが、もし次の海戦があれば、どこの水軍も源氏には船を出さなかっただろうという側面もあったという。




船頭や水夫たちは、「ここで射殺されるも、沖で死ぬも同じこと」と、200艘のうち5艘が出港した。

195艘は、梶原景時を恐れるか、強風に怖気づいて出さなかった。


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平家物語の群像 弁慶⑤摂津から西海を目指す

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$吉備路残照△古代ロマン-摂州大物浦平家怨霊顕る図 摂州大物浦平家怨霊顕る (せっしゅう だいもつうら へいけ おんりょう あらわる) 歌川国芳画

元暦2(1185)年2月16日午前2時、
「そなたらが兵船を出さなくとも、自分は行く。暴風のときに急襲してこそ、敵を討てるのだ」

とはいえ、200艘のうちわずか5艘しか付いて行かないとは寂しい大将だ。
まさか、弁慶ら平泉以来の家来だけではないだろうが……。

「船に篝火 (かがりび) をつけるな。火が見えると、敵が用心する。わが船の篝火に従え」

義経は、夜を徹して屋島へ急いだ。

摂津国 (大阪府) の渡辺から讃岐国 (香川県) の屋島まで、通常3日かかる航程を6時間ほどで渡った。

それから義経は、屋島~壇ノ浦とさしもの栄華を誇った平家を滅亡に追い込んでゆくが、弁慶が活躍する場面はない。


長くつづいた治承・寿永の乱 (源平合戦)  を終息させたことは、義経の大変な手柄だろう。

だが、平家が滅んだいま、軍事天才義経は政治家頼朝にとってもはや用済みであり、
自らの政治体制を築く上に邪魔な存在でしかなかった。

もちろん、義経は頼朝の体制作りを意識して妨害しようとしたわけではなく、兄の政治的意図を理解できなかっただけだ。

梶原景時が、讒言によって兄弟仲を裂いたといわれているが、それは些末なこと。

本質ではない。

その辺については後日、『源頼朝』 の項で触れたい。




頼朝に追われる身になった義経は、捲土重来を期して、いったん西海 (九州) に退くことにした。

摂津国の大物浦 (だいもつうら 尼崎市) から船出するが、すぐ暴風に遭って船が難破した。

『平家物語』 は、義経に滅ぼされた平家一門の怨霊の仕業とみる。


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平家物語の群像 弁慶⑥恋しき人の 影を止めねば

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$吉備路残照△古代ロマン-静御前  静 上村松園画


西海 (九州) を目指して船を漕ぎ出してはみたものの、暴風のため進まず、大物浦に押し戻されてしまった。

待ち構えていた頼朝の軍勢と戦闘になるが、家来たちの奮闘によりなんとか撃退する。

しかし、頼朝の追跡の手がいっそう厳しくなることが予想されるため、義経は家来の行く末を案じて縁故のある土地へ行くように計らい、義経自身は、静御前弁慶佐藤忠信らわずかな手勢とともに吉野山を目指した。

頃は、「都に春は来れども、吉野はいまだ冬ごもる」 季節で、吉野の谷川には氷さえ見えた。

静を伴って吉野に来たが、静は慣れない山越えで疲れ果てている。

そのうえ、義経の子を身ごもっていた。

静を京に帰そうと、数名の従者をつけて山を下らせた。

義経が小さな鏡をに渡して、「これを朝晩わたしと思って眺めるように」 と言い聞かせると、静は涙に暮れならが、

○見るとても 嬉しくもなし ます鏡
   
         恋しき人の 影を止めねば

鏡を見ても嬉しくありません。愛する人の姿を映してはくれないから

と詠んで、吉野山を下って行った。




途中で従者に持ち物を奪われ山中をさまよっていた時に、山僧に捕らえられ、京の北条時政に引き渡された。

そして、文治2(1186)年3月、母の磯禅師とともに鎌倉に送られる。

同年4月8日、静は頼朝に鶴岡八幡宮社前で白拍子の舞を舞うよう命じられた。


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平家物語の群像 弁慶⑦奥州平泉へ

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$吉備路残照△古代ロマン-奥州藤原氏三代  奥州藤原氏三代 上:清衡、向かって右:基衡、左:秀衡


頼朝・政子夫妻が鶴岡八幡宮に参詣するさい、舞を披露せよというのだ。

御家人たちも、「都で名高い、白拍子の舞をひと目みたい」 と楽しみにしている。

静は、「捕われの身で、目立つ場に出るのは屈辱」 と、病を理由に断ったが、頼朝から再三使いが来た。

やむなく、鶴岡八幡宮若宮の回廊に設けられた舞台に立った。
 

○吉野山  峰の白雪  ふみわけて

     入りにし人の  跡ぞ恋しき

吉野山の峰の白雪を踏み分けて姿を隠していったあの方 (義経) が恋しい

本歌

○みよしのの 山の白雪 ふみわけて 

      入にし人の おとづれもせぬ  壬生忠岑 (みぶのただみね)

白雪を踏み分けて吉野の山に入った人から、さっぱり連絡がない


○しづやしづ  賤のをだまき  くり返し

     昔を今に  なすよしもがな

「静よ静よ」 と繰り返し私の名を呼んで下さったあの昔のように、義経様の時めく世に今一度したいものよ

本歌

○古の しづのおだまき 繰り返し 昔を今に なすよしもがな   伊勢物語

昔、親しい語らいをし関係をもったことのあった女に、何年かたって(男が)、昔の織物の麻糸をつむいで巻きとった糸玉から次第に糸を繰り出すように、もう一度親しかった昔に時をまきもどして、あの楽しかった過去の日を現在にする方法があるといいなとしみじみ思うよ  

義経を慕って謡ったのが頼朝を激怒させるが、妻の北条政子が、「私が静の立場であっても、あのように謡うでしょう」ととりなした。

7月29日、静は男児を出産。

頼朝の命を受けた安達清常が赤子を受け取ろうとするが、静は泣き喚いて放そうとしない。
磯禅師が、娘から赤子を取り上げて清常に渡した。

義経と静の子は、生まれて間もなく由比ヶ浜に沈められた。




義経は吉野をでて、反頼朝の貴族や寺社勢力にかくまわれて京都周辺に潜伏するが、文治2年(1186)年5月、叔父の行家が鎌倉方に討ち取られ、各地に潜伏していた家来も次々と発見され殺害された。

後白河院や貴族が義経をかばっていることを疑った頼朝は、「京都が、義経を守るのなら大軍を送る」 と恫喝した。

京都にいられなくなった義経は、弁慶らとともに藤原秀衡を頼って奥州の平泉へ逃れる。


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平家物語の群像 弁慶⑧安宅の関

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$吉備路残照△古代ロマン-弁慶と義経  義経を打ちすえる弁慶 安宅の関


義経弁慶の一行が、北陸を通って奥州へ逃れる途上の加賀国安宅の関 (石川県小松市)。

一行は、弁慶を先頭に山伏の姿で関所を通り抜けようとした。

しかし、関守の富樫左衛門のもとには、すでに義経一行が山伏姿であるという知らせが届いていた。

富樫の尋問に対して、「焼失した東大寺再建のための勧進をしながら諸国を歩いている」 と弁慶が答えた。

すると、富樫は勧進帳を読むように命じる。

弁慶は、とっさに持ち合わせの巻物を広げて、あたかも勧進帳であるかのように朗々と読み上げた。

得心がいかない富樫が、山伏の心得や秘密の呪文について尋ねると、
弁慶は、比叡山で修行した経験を活かして淀みなく答えた。

富樫は通行を許そうとするが、部下のひとりが義経に疑いをかける。

「あの者らの中に、さっきからずっと傘で顔を隠している者がおります。動きもあやしく、義経と思われます」

弁慶はすぐさま、手に持っていた金剛杖で、主君の義経を何度も何度も何度もこっぴどく叩いた。

「こいつめ。こいつめ。こいつめ。お前が義経とやらに似ているせいで、いつもあらぬ疑いをかけられるではないか」





富樫は弁慶のウソを見抜いたが、その心情を汲んで、だまされた振りをして一行を通した。

安宅の関を通ったあと、弁慶は主君を殴ったことについて泣きじゃくりながら義経に謝ったという。


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