甲斐大和駅前の武田勝頼像
勝頼は長篠の戦いにおいて騎馬隊が織田・徳川連合軍の鉄砲に一蹴されたことで領国の動揺を招いたが、その後、上杉氏との甲越同盟、佐竹氏との甲佐同盟で甲斐の再建を図ったうえ、佐竹義重の仲介で信長との和睦を模索している。
勝頼はとかく父親の信玄と対比して愚将扱いされるが、なかなかどうして。
しかし、信長との和睦はならず、信忠を総大将とする織田軍の「武田征伐」によって、天正10年(1582)3月11日、嫡男・信勝とともに天目山で自害した。
甲斐武田の滅亡である。
その頃のことだ。
信長や織田家の諸将が集まっているなか、光秀がひとこと、「我々も骨を負った甲斐がありましたな」位のことを口にすると信長が激高。
「貴様が甲斐で何をしたというのか!!」と怒鳴りつけ、光秀を部屋から引きずり出して、額を何度も欄干に打ち付けた。
居並ぶ諸将の前で、大恥をかかせた。
信長も、「さすがに光秀じゃ。その甲斐の掛け言葉、面白いぞ」と笑ってればいいものを。
他の部将の発言であれば、そこまで取り乱して怒ることもなかったのではないだろうか。
両者の関係は、もはや抜き差しならないところまで来ている。
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