辛かっただろう 明智光秀
秀吉が陽なら、光秀は陰。
保守的なインテリーである光秀は、生真面目すぎる性格ゆえに、信長の言動から受ける屈辱の数々を正面からかぶり、憎悪の念を心の底深く沈めていった。
これが天下の覇権確立を目前にして、信長が挫折した要因である。
信長がいかに光秀の心情と誇りをズタズタにしていったか、いくつかを時系列で追ってみよう。
映画やNHKの大河ドラマなどで、広く知られていることである。
天正3年(1575)6月、信長に近畿平定を命じられた光秀は、近畿各地を転戦しつつ4年越しで丹波の八上城城主・波多野秀治を降して、天正7年(1579)ついに畿内を平定した。
波多野氏を降伏させると、秀治(ひではる)と弟の秀尚(ひでひさ)を安土の信長のもとに送る。
その時のことだ。
光秀は、秀治らの身の安全を保証するために、自分の母親を人質として八上城へ入れた。
ところが、あろうことか信長は6月2日、光秀が母親を人質として敵方に差し出していることを承知の上で、秀治らを磔(はりつけ)に処した。
ここに、光秀と信長の性格の違いが際立つ。
しかも何の因果か、その日は本能寺の変のちょうど3年前にあたる。
信長が徳川家康に命じて、妻の築山御前と嫡男の信康を殺させた年でもある。
怒った波多野の家臣たちは、光秀の母親を磔にした。
そして運命の1582年。
3月、光秀は、長篠の合戦後も抵抗を続ける甲斐の武田勝頼征討軍に従った。
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夢まぼろしの如く ⑫信長と光秀
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