吉田(藤原)経房つねふさ
文治元年(1185)11月7日の夜、北条時政が6万余騎を率いて上洛。
翌8日、院の御所を訪ねた。
「源義経や源行家らを追討すべき院宣を頂きたい」
すると、後白河はすぐに義経追討の院宣を出した。
さる2日には、義経の頼みを受け入れて、「頼朝に背くべき」下文を出し、6日後には、頼朝の申し状に応えて、「義経を討て」との院宣を下したわけだ。
朝令暮改というか、実にいい加減である。
後白河の、その場しのぎの一貫性のなさに、平清盛も頼朝も義経も翻弄された。
頼朝が後白河を、「日本国第一の大天狗」と評したのは、この辺のことを指すようだ。
やはり、人として悲しい。
平家を滅ぼして義経を都から追放した頼朝は、自分を「日本国の総追捕使」(守護の前身)とするよう朝廷に願いでた。
同時に、田一段ごとに兵糧米を収めるよう申しでる。
驚いた後白河は、公卿らに諮った。
「朝敵を平らげた者には、国の半分を与えるということが『無量義経』に書かれている。全国という頼朝の要求は過大だと思うが、どうか」
しかし、公卿らの協議の結論は、「頼朝殿の申し出には、半ば道理がある」というもので、後白河は不本意ながら頼朝の申し出を受けざるを得なかった。
こうして、頼朝は諸国に守護、荘園に地頭を置くことになる。
頼朝はこうした制度改革の実務を、大納言の吉田経房に任せた。
経房は当時、おのれに厳格な人物として知られていた。
平家が栄えていたころは平家一門と親しくしていた人々の多くが、源氏の世になると手紙を書き送ったり使者を遣わしたりして頼朝にへつらう。
経房は、そうすることを潔しとしなかった。
12歳のとき父を亡くし孤児になるが、能力があったのだろう。
五位の蔵人、蔵人頭をへて参議、大宰府長官、大納言とスピード昇進する。
「人をば越え給へども、人には越えられ給はず」
すぐれた人物は、才能が自然に外に現れるということか。
経房は、まことに得難い大納言であった。
頼朝の代官として都を警護している時政が、触れを出した。
「平家の男子を捜して連れてきた者には、好き放題に褒美を取らせる」
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平家物語の群像 頼朝の布石⑪吉田経房
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