大物の浦(だいもつのうら) 兵庫県尼崎市
「義経が都におれば、頼朝の軍勢が乱入して激しい戦いになるでしょう。九州へ行けば、その懸念はなくなります」
公卿らが意見を述べた。
「そうか、それならば」
後白河は、次のような下文を義経に与えた。
「緒方維義をはじめ、臼次(うすき)、戸次(へつぎ)、松浦党ら九州の者はみな、義経の命令に従え」
文治元年(1185)11月3日、義経は都に少しの波風も立てず、西に向かって馬を進めた。
500騎余りが続く。
これを知った摂津源氏の太田頼基は、「わが門前を一筋の矢も放たずに通せば、必ずや頼朝殿の耳に入るだろう。ここはひとつ、矢を射かけておこう」
60騎余りの手勢で駆け、河原津辺りで追いついた。
すると、義経の500騎がとって返し、頼基の60騎を囲む。
「逃がすな。討ち洩らすな」
激しく攻め立てると、頼基は馬の腹を射られ、退却。
義経は、頼基の部下20人余りの首を刎ねて晒し、軍神に祭った。
そして鬨の声を上げ、「いい門出だ」と喜びあった。
翌11月4日、義経は大物の浦(兵庫県尼崎市)から船に乗り込む。
だが、折節、西からの風が激しく吹きつけ、船が住吉の浦へ打ち上げられた。
船が壊れて使えなくなったのでやむなく九州行きを諦め、吉野山へ向かう。
しかし吉野山に入ると、山法師から攻められて奈良へ落ちた。
奈良でも法師から攻められ、いったん都へ戻った。
それから、奥州の藤原秀衡を頼るのである。
義経は都から連れてきた10人ほどの女房たちを、吉野山へは伴わず、住吉の浦に置いてきぼりにしていた。
松の根元や苔の莚(むしろ)に倒れ臥したり、砂浜の上に片袖を敷いたりして泣いていた女房たちを、住吉の神官が憐れみ、乗物を用意して全員を都に送り届ける。
義経が最も頼りにしていた緒方維義や源行家たちの乗った船も島々に打ち上げられ、お互い行方知らずになった。
西からの風が突然、義経たちの船を襲ったのは、平家の怨霊のせいだと言われている。
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