都にいる義経には頼朝の命令によって大名10人がついていたが、義経が頼朝に嫌疑をかけられていると聞くと、大名たちは相談して一人ずつ東国へ帰って行った。
なぜか。
何がきっかけで、頼朝は義経を疑い出したのか。
頼朝と義経は血を分けた兄弟であるばかりでなく、父子の契りまで交わしている。
しかも、その義経は、一の谷から瀬戸内海を西に平家を追撃してついに壇の浦において平家の息の根を止めた。
それから、三種の神器の鏡と勾玉を都へ持ち帰り、いくさ続きで乱れきっていた世の中を鎮めた。
大変な手柄である。
ところが、恩賞が与えられてしかるべきところを、どうやら頼朝の不審を招いている。
朝廷から庶民にいたるまで皆いぶかしがった。
後日、頼朝が義経を疑いだした理由に関する噂が流れる。
それは、屋島の戦いの前夜、義経と梶原景時が摂津(大阪)の渡辺で舟に逆櫓(さかろ)を付けるか付けないかの論争をしたとき、義経からあざ笑われた景時がそのことを恨みに思って、あることないことを頼朝に讒言したからというものだ。
頼朝は、義経の勢力が大きくならないうちに一刻も早く京へ追っ手を差し向けて討つことにした。
だが、大名らを送り込めば、義経が宇治や勢田の橋を落として京の町が大騒ぎになってまずい。
どうしたものかと思い直して、土佐房昌俊(しょうしゅん)を呼んだ。
「和僧、上つて物詣でするやうで謀つて、(義経を)討て」
昌俊は命を受けると、宿所へも寄らずに都へ向かった。
文治元年(1185)9月29日、昌俊は上洛したが、翌日まで義経の屋敷へ挨拶に行かなかった。
義経は昌俊が京に来たことを聞くと、武蔵房弁慶を迎えによこした。
義経が、昌俊に尋ねる。
「土佐房、頼朝殿からの手紙を預かってはいないのか」
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30過ぎて芸能界入りしたキンタロー。の覚悟を見よ!!
ジャニーズ事務所は、「他人様の身体的特徴を笑ってはいけない」という基本的なことを教えていないらしい。