元暦2年(1185)6月9日、頼朝に、「宗盛殿と清宗殿をお連れして京へすぐに戻るよう」命じられた義経は、ふたたび宗盛・清宗父子を預かって都へ出発した。
命が延びたことを喜んだ宗盛だが、1日でも長く生きていたいと何かにすがるように祈っている彼の心中が哀れである。
京都への道すがら、いろんな国々や宿場を通り過ぎるたびに、宗盛は、「ここで処刑されるのだろうか」、「ここで首を刎ねられるのだろうか」と絶えず不安に駆られていた。
尾張国に内海(うつみ)という土地がある。
宗盛は、「内海は平治の乱のとき、頼朝殿や義経殿の父・源義朝殿が殺された場所だ。きっとここで処刑されるのだろう」とひどく心配したが、何ごともなく内海を通り過ぎた。
そのうち、「もしかしたら、わたしと清宗は助けられるのだろうか。このまま殺されずに、都で余生を送れるのだろうか」と淡い期待感さえ芽生え始めていた。
清宗は、父親より冷静に考えていた。
「頼朝殿が、平家一門の棟梁である父や私の命を助けるとは思えない。これほど暑い時節なので、首が腐らないようにもっと都に近くなってから斬るつもりだろう」
だが、それをいうと父が絶望するだろうから、口にはせず、ただ念仏を唱えることを勧めた。
6月21日、近江国の篠原の宿に到着した。
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