義経に上洛への拠点である屋島を攻略された平家一門は、源範頼(のりより)の軍勢が待ち構えているため、
ふたたび九州へ赴いて捲土重来を期すこともできず、瀬戸内海を漂流していた。
義経は志度の浦で首実検をしていたが、伊勢義盛を呼んだ。
「阿波民部・田口成良(しげよし)の嫡子・田内教能(のりよし)は、伊予の河野通信(みちのぶ)が召集しても応じないので、通信を攻めるため3千余騎で伊予へ向かったが、通信を討ち洩らしたそうだ。家子・郎等150人の首を刎ねて、昨日屋島へ戻り、今日ここに着くと聞いている。会って連れて参れ」
義盛は白旗を受け取ると、手勢16騎を率いて向かった。
義盛勢16騎と教能勢3千余騎が、一町(約109.09m)ほどを隔てて、互いに赤旗と白旗を立てる。
義盛は、教能のもとへ使者を送った。
「お聞き及びと存じますが、源頼朝殿の弟・義経殿が平家追討の院宣を承って西国へ向かっておられます。その郎党で伊勢義盛と申します。貴殿と合戦するつもりはなく、武具もなく弓矢も携えておりません。
お話があって、こちらへ参上しました。道を開けて下さい」
教能勢が道を開けて、義盛を通した。
教能と馬を並べて、義盛がいう。
「義経殿が平家追討のため、一昨日阿波の勝浦に着いて、殿の伯父上・田口良遠殿を討ち取られました。それから、屋島に着いて、内裏を焼き払い、安徳天皇は海にお逃れになりました。宗盛殿・清宗殿父子を生け捕りにしました。教経殿はご自害。他の方々も自害あるいは入水なさいました。残党も、今朝、志度の浦で討ち取りました。
殿の父上・田口成良殿は降伏され、私がお預りしておりますが、『なんということだ。教能は事情を知らず、明日、合戦して討たれるだろう。痛ましいことよ』と一晩中嘆かれていました。それが何とも気の毒で、お知らせに参上しました。
合戦で討たれるか、あるいは兜を脱ぎ弓の弦を外し降人となって父上と再会されるか、殿のお考えひとつです」
教能は、「聞いていた通りだ」と、兜を脱ぎ弓の弦を外して、源氏の軍門に降った。
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オリンピックの事典―平和と青春の祭典 (Sun lexica (11))/三省堂
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古代ギリシャ以来、平和の祭典であるオリンピック。
アテネやスパルタなどの都市国家が、どんなに激しい戦争をしていてもオリンピック期間中は戦いを止めたという。
そのシンボルともいえる聖火を掲げたランナーがやってくるのを待ち構えていたかのように、アテネから北京までのほとんどの都市で、平和の祭典にふさわしくない騒ぎが起きた。
何事もなかったのは、聖火が北朝鮮と中国を走る時だけではなかったか。
「チベット問題」を、わがことのように考えている人々がいかに多かったかということの証明にもなる。