わずか16騎を率いた伊勢義盛が、巧みな弁舌で投降させた3千余騎の大将・田内教能(のりよし)を義経に目通りさせた。
「義盛、そなたの計略はいつもながら見事だ」
義経は、教能の武装を解くと身柄を義盛に預けた。
「ところで、あの3千騎はどうすればいいか」
「彼らは遠国の者、誰を主君に仰ぐということはありません。乱世を鎮め、国を治める人物を主君とするでしょう」
「もっともだ」
義経は、3千余騎を源氏軍に取り込んだ。
嵐がおさまるまで摂津(大阪府)の渡辺に待機していた200余艘の船が、梶原景時を先鋒として、2月21日の辰の刻(午前7~9)に屋島に到着する。
義経の郎党らは、せせら笑った。
「四国はすでに義経殿が落とされたた。もはや何の役にも立たない。
『6日の菖蒲(5月5日の端午の節句が終わって役に立たない菖蒲)、法会に間に合わない花(法要に間に合わなかった献花)、喧嘩のあとに持つ棒切れ』とはこのことだ」
屋島の合戦に勝利した義経は、周防国(すおう:山口県東南)へ赴き、兄の範頼と合流した。
平家が長門国(山口県北西)の彦島に到着したという噂が伝わると、源氏も長門国の追津(下関市・奥津)に向かった。
源平両軍が、時期を同じくして長門の国に陣を構えたことは不思議といえば不思議である。
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半月ほど前に読んだ新聞か雑誌の座談会で、ある評論家が、「中国の反日デモの中核をなす連中には、政府から日本円にして2千円ほどの日当が出ています。プラカードを掲げるとプラスα。中国ではかなり高給ですよ」と語っていた。
その時は、「まさか!!」と読み流したが、世界各地での暴動を見ていると、「もしや?」と思わざるを得なくなる。
死傷者がでるほどの荒っぽい騒ぎを、たまたま参加した人々だけで起こすだろうか。
騒ぎを起こすプロ集団が混じっていやしないか。