「このたび鎌倉を発って平家討伐に赴く者らは、義経の命に背いてはならぬ。従う気のない者は、すぐに鎌倉へ帰れ」
与一は、思い直した。
「承知しました。ご命令ですので、やるだけやってみます」
御前を退くと、太くたくましい黒馬に、丸海鞘の紋が描かれた金覆輪の鞍を置いて乗った。
そして滋籐の弓を持ちなおし、手綱をさばいて、波打ち際へ馬を進めた。
坂東武者たちが与一を見送りながら、「あいつなら必ず射止めるに違いない」と話している。
彼らの話を耳にした義経は、与一の後姿を頼もしそうに眺めていた。
扇の的までやや遠いので、与一は、海の中に一段(11m)ほど入ったが、
それでもまだ扇までの間合いは七段はあるように思えた。
2月18日の酉の刻(夕方5~7時頃)。
北からの風は激しく、磯に打ち寄せる波は高い。
舟は波に大きく揺られ、扇はひらひら動いて定まらない。
沖合には、平家方が何艘もの船を並べて見物している。
陸では、源氏勢が馬を並べて眺めている。
「扇の的」と「与一の武者振り」の取り合わせが一幅の名画を見るようで、
源平両軍とも晴れがましい雰囲気に包まれていた。
与一は、目を閉じた。
「南無八幡大菩薩、我が国の神明、日光権現、宇都宮大明神、那須湯泉大明神、願わくは、あの扇の真ん中を射させて下さい。もし外したら、ただちに弓を折って自害します。
もう一度、那須へ迎えてやろうと思って下さるのなら、どうか矢を外させないで下さい」
心の中で祈り、目を見開いた。
風がおさまって、扇を射やすくなっている。
与一は鏑矢(かぶらや)を取って弓につがえ、引き絞ってひゅっと放った。
小兵といえど、十二束三つ伏せ、弓の張りは強く、鏑矢は海辺に響き渡るほどに長鳴りして、
扇の要から一寸ほどのところをみごとに射切った。
扇は空へ高々と舞い上がって、春風に一もみ二もみ揉まれると、さっと海に散った。
邦楽舞踊シリーズ 長唄新曲 御所人形/祇園の四季/扇の的/獅子の乱曲 他/日本伝統文化振興財団
¥2,100
Amazon.co.jp
中国はいかにチベットを侵略したか/講談社インターナショナル
¥1,890
Amazon.co.jp
「パン」、「パン」。雪山に響く乾いた銃声。憧れと至福にみちた「巡礼の旅」が、一瞬にして、「死出の旅」に暗転する。