小松内大臣平重盛公墳墓
その頃、中宮・徳子が懐妊したため、腹違いとはいえ兄である重盛の内大臣辞任は認められず、左大将のみ辞任した。
一方、成親がその武力を頼りにしていた多田行綱の密告によって鹿ケ谷の陰謀を知った清盛は激怒。
謀議に参加した面々を一網打尽にした。
鹿ヶ谷の陰謀④捕縛そして処罰
義兄の謀反がよほどこたえたのか、重盛は病気がちになり家に籠もるようになる。
治承3(1179)年3月、熊野に参詣して後世のことを祈ったが、病状が悪化したため、5月25日に出家した。法名は浄蓮。
6月21日、後白河法皇が、六波羅の邸・小松殿 (以後、重盛や維盛の家を小松家とする) を訪れて重盛を見舞った。
治承3(1179)年7月29日、重盛、死去。享年42。
父重盛を亡くした維盛は、平家一門の中でますます孤立感を深めたことだろう。そんな時、
源頼朝や木曽義仲などの源氏勢が次々に兵を挙げた。
治承4(1180)年8月17日、頼朝が平家打倒の挙兵。
治承4(1180)年9月5日、維盛、頼朝追討軍の総大将に任ぜられる。
維盛は7万騎 (『平家物語』による) を率いて、東国へ進軍。
初陣で23歳の桜梅少将に、7万騎という大軍の総大将が務まるものなのか。
わたしが清盛なら、維盛より3歳年長の叔父・重衡を総大将に指名するのだが……。
やはり、清盛は 「嫡流の維盛が平家一門の棟梁」 という腹積もりだったのだろうか。
出陣する維盛の武者姿は、絵にも描けない美しさだったという。
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平家物語の群像 維盛③頼朝追討軍の総大将に
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