千手の前は、「一樹の陰に宿り、同じ流れの水を飲むのも、これ皆、前世からの契りがあってのこと」という白拍子の舞い歌を、しみじみと謡った。
それから重衡が、『和漢朗詠集』の *「燈(ともしび)暗うしては、数行虞氏が涙」という朗詠を謡った。
次のような意味だ。
昔、中国で、漢の高祖(劉邦:りゅうほう)と楚の項羽:こううが、帝位を争って戦うこと実に72回。
項羽が、劉邦に勝ち続けた。
しかし、ついに項羽が合戦に負けて、楚が滅ぶ時がくる。
一日に千里を駈ける騅(すい)という名の駿馬に乗って、后の虞氏とともに逃げようとしたが、なぜか、騅が脚を揃えて動こうとしない。
項羽は、「敵が襲ってくるのは何でもない。ただ、后と別れねばならないことが辛い」と嘆き悲しんだ。
虞氏は、燈が暗くなってくると、心細くなって涙を流した。
*「燈(ともしび)暗うしては、数行虞氏が涙」
夜が更けてくると、敵の軍兵が四方に閧の声を上げた。
この時の項羽の気持ちを、橘広相 (たちばなのひろみ 平安時代前期の公卿&学者) が漢詩に詠んだのを、重衡が謡ったのである。
何とも物悲しく、また優雅に響いたそうだ。
天下の権を握ったかのように見えた項羽が、あっけなく没落してゆく。
重衡は、そうした項羽の運命に、平家一門と自身の運命を重ね合わせたのだろう。
夜も深くなったので、宗茂と千手の前は退出した。
翌朝、源頼朝が持仏堂で法華経を読んでいるところへ、千手の前が戻ってきた。
頼朝は笑みを浮かべて、「夕べは、重衡殿をとても上手にもてなしてくれた」と千手の前をほめたという。
何か物を書いていた中原親義が、「何事ですか」と尋ねた。
感慨深そうにしていた頼朝が、口を開いた。
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「(原文) 平家の人々は甲冑弓箭の外はまた他事あるまじとこそ日比は思ひしにこの三位中将の琵琶の撥音朗詠のやう終夜立ち聞きつるに優に優しき人にておはしけり」
「平家の人々は、合戦に明け暮れて他のことは何もしていないだろうと思っていたが、重衡殿の琵琶をはじく音、朗詠を口ずさむ声、
ずっと立ち聞きしていたが、とても優雅で上品な方だった」
親義が、続ける。
「私もお供したかったのですが、気分が悪くて遠慮しました。次からは、私も立ち聞きしましょう。
平家は代々、歌人・才人の家柄で、先年、平家の方々を花に例えたところ、重衡殿は牡丹でした」
頼朝は、重衡の琵琶の音色と歌声を、後々まで忘れなかったそうだ。
千手の前は、重衡が物思いの種になったのだろうか。
重衡が、南都で引き回されて斬られたと聞くと、ひっそりと出家して墨染めの衣に袖を通した。
そして、信濃の国(長野県)の善光寺で行を修め、終生、重衡の後世・菩提を弔ったという。
若い身空で、なんとも哀れである。