平重衡出陣の図
寿永3(1184)年2月の一の谷の戦いに先立つ、治承4(1181)年の12月28日、重衡を総大将とする総勢四万余騎の平家軍が、南都(奈良)征討に出陣した。
治承4年5月、以仁王が南都に逃げ込もうとしたことで分かる通り、南都の寺院勢力は平家に敵対していた。
九条兼実は12月19日、日記『玉葉』に、「衆徒の内に源氏に呼応する凶徒がいるが、上級僧侶の説得により留まっているそうだ」と記し、22日には、「近日中に官軍を南都に遣わし、悪徒を取締り坊舎を焼払うとの噂がある」と書いている。
南都が、鎌倉の頼朝と気脈を通じていたことが分かる。
『平家物語』では、清盛は南都の不穏な情勢を察知し、事態の沈静化に腹心の妹尾兼康を派遣するが、非武装の兼康一行を僧兵が襲撃し、多くの郎党が殺害された。
命からがら逃げ帰った兼康から報告を受けた清盛は激怒、南都追討を決断した。
古来、東大寺と興福寺は各地に広大な荘園をもちまた多数の僧兵を抱えており、近江の延暦寺や園城寺(三井寺)とともに、中央政権にとってままならない存在だった。
藤原摂関家を抑えて強力な院政を敷いた権力者白河法皇をもってして、「賀茂河の水 双六の賽 山法師 是ぞわが心に 叶わぬもの」と嘆かせる。
清盛が福原遷都を強行したのは、宗教勢力の圧迫から逃れるためとも言われる。
ちなみに、仏道修行の場であるはずの寺院から武力装置である僧兵が姿を消したのは、織田信長による宗教勢力の弾圧以来という。
…… ……
○入道相国且々南都の騒動を鎮めんとて瀬尾太郎兼康を大和国の検非所に補せらる。
清盛はひとまず興福寺の騒動を鎮めようと、兼康を大和国の検非違使所に任じた。
○相構へて衆徒は狼藉を致すとも汝等は致すべからず。物の具なせそ。弓箭な帯しそとて遣はされたりけるを南都の大衆かかる内議をば知らずして兼康が余勢六十余人搦め捕つて一々に皆首を斬りて猿沢の池の端にぞ懸け並べたりける。
「興福寺の衆徒(のちの僧兵)が狼藉を働いても、お前らは手を出すな。武具をつけず、弓も携帯するな」と言いふくめて遣わしたが、衆徒はそんなこととは知らず、兼康勢60余人を捕らえて首を刎ね、猿沢の池の端に並べた。
○入道相国大きに怒りてさらば南都をも攻めよやとて大将軍には頭中将重衡中宮亮通盛都合その勢四万余騎南都へ発向す。
清盛はおおいに怒ってそういうつもりなら興福寺も攻めよと、大将軍には平重衡、平通盛をはじめとして総勢四万余騎を奈良・興福寺へ向かわせた
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平家物語の群像 平重衡④南都攻めの大将軍は頭中将
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