平知章(ともあきら)孝死之図 源平盛衰記
平家落人伝説にかぎらず、落人伝説の多寡は、その「落人」が当時の人々の間でどれだけ人気があったかのバロメーターになるのではないだろうか。
『那須与一(実際は与一の話ではないが)』、『平教経』、『平知盛』とまだわずか3件の例だが、調べて書いているうちにそんな気がしてきた。
例えば、日本各地に知盛の落人伝説が10カ所あり教経に15カ所あるとすれば、教経のほうが人気が高かった。
こういうことである。
落人伝説とは、「落人」が戦いに敗れてどこかの土地に落ちたのではなく、ある土地の人々が生前から何らかの繋がりがあったり好意を寄せていたりしていた「落人」を、気持ちの上で自分の土地に招いた温情あふれる作り話なのだ。
つまり落人伝説の多い人物が「引く手あまた」であり、人気が高いということになる。
改めていうまでもなく、知盛伝説のあるすべての土地に「知盛」が逃げ延びたのではない。
人気云々はともかく、心を寄せる「落人」が戦場で無残に殺されたり入水したりしたことを認めたくなかったのだろう。
自分の土地で、生を全うして安らかに眠りについて欲しい。
落人伝説とはそういう民衆の側からの願いであり同情であり、「落人」に対する憧れでもあった。
では、そういう願いや同情や憧れと、実際の「落人伝説の土地」とはどういう関係にあるのだろうか。
…… ……
○監物太郎落ち重なり武蔵守討ち奉つたりける敵が童をも討つてけり。その後矢種のあるほど射尽くし打物抜いて戦ひけるが弓手の膝口を強かに射させ起きも上らで居ながら討死してけり。
頼方が馬から飛び下りて知章を討った童子を討ち取った。それから矢が尽きるまで射ると、太刀を抜いて戦ったが、左の膝を深く射られ起き上がれずに討ち死にした。
○この紛れに新中納言知盛卿は其処をつつと逃げ延びて究竟の息長き名馬には乗給ひぬ。海の面二十余町泳がせて大臣殿の御舟へぞ参られける。舟には人多く取り乗つて馬立つべきやうもなかりければ馬をば渚へ追い返さる。
その間に知盛は逃げ延びて、体力のある名馬に乗って海を20余町ほど泳がせ、宗盛の舟に乗った。舟には大勢乗っていて、馬が立つ隙間もなかったので馬は渚へ追い返された。
○阿波民部重能片手矢番ひて御馬既に敵の物となり候ひなんず射殺し候はんとて出でければ新中納言
只今我が命助けたらんずるものをあるべうもなしと宣へば力及ばで射ざりけり。
重能が片手で矢をつがえて「御馬は敵のものとなりました。射殺します」というと、知盛が「たった今、私を助けてくれた馬を殺すなどとんでもない」と言ったので、射るのをやめた。
…… 原文に忠実な訳ではありません ……
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