源氏物語名場面㊽
玉鬘 参
【大宰府政庁正殿】復元CG
制作
福岡県総務部国立博物館対策室
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663年、
白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れた日本軍は、
唐・新羅連合軍の侵攻を想定し、辺境防備のために、
各地に防人や烽を置き、多くの軍事施設を造りました。
特に大宰府は、
その周囲に水城(小水城)・大野城・基肄城を百済人技術者の指導の元に築き、現在の春日市から太宰府市を経て、筑紫野市・佐賀県三養基郡基山町にいたる周囲約8kmにも及ぶ防衛ラインを築きあげました。
『大宰府政庁の創設と大宰府の防衛』
から抜粋
九州国立博物館
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【太宰府政庁】での任期が終わり
帰京しようとした矢先
太宰少弐が急な病で床に臥した。
余命いくばくもないことを自覚した少弐は
不吉なまでに美しい玉鬘を自らが都に
連れて帰る状態ではなくなった。
「私が当地で果てたら姫君はどう
なられるのだろう。
このまま草深い土地でお暮らしに
なるのは余りにもお気の毒。
早く都にお連れして
あの方にお知らせしなければならないが
遠からず私は命が尽きる」
■
三人の息子たちに遺言した。
「三人で協力して、
姫君を無事に都へお連れしなさい。
私の供養はしなくても良い」
■
少弐夫妻は
玉鬘がだれの娘かということを
【大宰府政庁】の関係者にも伝えず
次のように言い繕っていた。
「私たちの孫娘ですが、
とある理由があって
特別大事に育てているのです」
■
ほどなく、
病に臥せていた少弐が亡くなった。