![$吉備路残照△古代ロマン-知盛入水](http://stat.ameba.jp/user_images/20121117/16/asaborake/6e/c1/j/t01590213_0159021312289956044.jpg)
知盛が、「約束を守るだろうな」というと、家長は、「もちろんですとも」と答えるや、知盛に鎧を2領着せ、自分も鎧を2領着ると、手に手を取って一緒に海に身を投げた。
それを見ていた20人あまりの武士たちも、続いて入水した。
ただ、景清ら何人かは、逃げ延びて行方をくらます。
壇ノ浦の海上は、平家の赤旗や赤印が切り捨てられたりかなぐり捨てられたりして、あたかも龍田川の紅葉を嵐が吹き散らしたがごとくであった。
波打ち際に寄せる白波は、薄紅色に染まった。
長い長い源平の戦いが終わって、多くの舟が潮の満ち引きのままにあるいは風に任せて、あてどなく揺られている様子がいいようもなく物悲しい。
中宮徳子、宗盛・清宗父子、時忠ら81名が生け捕りになった、
元暦2(1185)年4月3日、義経は源広綱を院の御所へ向かわせ、後白河法皇に申し上げさせた。
「去る3月24日卯の刻(午前6時)、豊前国(福岡県)の田の浦と門司が関、長門国(山口県)の壇の浦と赤間が関において、平家をことごとく攻め滅ぼしました。(三種の神器の)八咫鏡と八尺瓊曲玉を都へ返還いたします」
法皇は大いに喜んで広綱を御所の内庭に招き入れ、合戦の様子を詳しく尋ねた。
そして感動のあまり、その場で弘綱を左兵衛に叙した。
4月5日、法皇は北面武士の藤判官信盛を呼んで、
「八咫鏡と八尺瓊曲玉をたしかに取り戻したか確かめてまいれ」と西国へ遣わす。
信盛は院の馬で、そのまま西を目指して鞭を上げた。
週刊司馬遼太郎(2)
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