治承4(1180)年9月18日、維盛を総大将、大叔父の薩摩守忠度 (ただのり) を副将、
伊藤忠清を侍大将として、総勢3万余騎が福原を発った。
19日、京へ到着。20日、東海道を下って行く。
途中、維盛軍は7万騎ほどに膨れ上がった。
しかし、その年は西日本一帯が凶作で、兵糧や武器の調達が思うに任せなかった。
物資の欠乏は当然、将兵の士気に関わるだろう。
しかも、平家軍にとってかつてない長途の遠征だ。
この頼朝追討軍が、東海道を進んでいる間にも、各地の源氏が次々と蜂起している。
追討軍が駿河 (静岡県) に着くと、駿河国目代 (もくだい:国司の代官) 橘遠茂 (たちばなのとおもち) は、
駿河に侵入しようしている武田信義 (甲斐源氏) 討伐に向かったが、富士川べりで戦い惨敗して討たれた。
追討軍にとって、不吉な前兆である。
維盛が侍大将の伊藤忠清を呼んで、自分の考えを述べた。
「足柄山を越え、広い野原で勝負したい」
忠清が、答えた。
「福原を発つとき、清盛入道が、『合戦のことは忠清に任せよ』 と維盛殿に言われたはずです。
伊豆と駿河の軍勢が、まだ見えません。味方は7万余騎とはいえ寄せ集め。馬も武者も疲れ果てています。
関東では草や木も、頼朝になびいているようですから何十万騎にもなるでしょう。富士川に布陣して、味方の軍勢が揃うのをお待ちになるのが、よろしいかと存じます」
その頃、頼朝は鎌倉を発ち、足柄山を越えて駿河国の木瀬川に到着。甲斐や信濃の源氏も駆けつけて合流。
駿河の浮島が原で馬揃えを行った。総勢20万騎とのこと。
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