知盛山久唱寺 伊勢市矢持町
壇ノ浦で、平家は源氏軍に壊滅的な敗北を喫した。
知盛は、一門の終わりを見届けてから、乳母子の伊賀家長とともに、2度と浮かび上がらないように重い鎧を2領着て、壇ノ浦の海に身を投じた。
多くの家臣が自ら、知盛が沈んだ同じ場所に没していった。
『平家物語』は、そのように記している。
兄の宗盛は家臣らに軽蔑され船から海に落とされたが、知盛は人望があったようだ。
一方、伊勢の矢持町に伝わる伝説によると、戦いに敗れた知盛と二位の尼、安徳天皇らは平保道に護られて播磨の中津に上陸した。
そして、山づたいに鳥取県東柏郡中津へ向かった。
中津で、知盛主従8人は一行と別れて伊勢の船江へ落ちる。
それから、伊勢の前山にしばらく隠れ住んだ。
前山は外宮の神領で、知盛が身を隠すに絶好の土地。
当時、前山には世義寺(現在は伊勢市勢田町に移転)があり、跡地から安徳天皇誕生に関係があるという重文指定の陶経筒が出土している。
知盛らは、伊勢の矢持で平家再興を企て、源頼朝と対立した義経と手を結んだともいわれる。
だが、頼朝打倒はならなかった。
北条時政による探索をのがれ、鷲嶺(しゅうれい)の峰をこえて菖蒲の里に移り住んだ。
知盛の死後、菖蒲の墓地に御堂を建てて菩提を弔ったのが、「知盛山久昌寺」である。
久昌寺には「当地草創久昌寺殿従二位新中納言平庵知盛大禅定門」と書かれた位牌が祭られている。
久昌寺は壇ノ浦の戦いの5年後、建久元(1190)年の建立。
本尊の阿弥陀如来には承久3(1221)年8月20日付の胎内銘があり、「西海に沈んだ平家を弔ってこの仏を造らせた」という文が添えられているそうだ。
昭和27年本堂改築の際、知盛の墓を発掘したところ、写経石数千個と短刀一振りと人骨2体がみつかった。
ところが、その人骨はなぜか女性のものであった。
……
○海上には赤旗・赤印投げ捨て、かなぐり捨てたりければ、竜田川の紅葉葉を嵐の吹き散らしたるがごとし。
海上は平家の赤旗や赤印を投げ捨てたりかなぐり捨てたりしていたので、まるで竜田川の紅葉の葉を風が吹き散らしたようだ。
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平家物語の群像 平知盛③海上には赤旗・赤印投げ捨て
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